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優しい君を道連れに

 

 少し気の早いセミがジィー、ジィー、セピア色の中でやけに鮮明な鳴き声を上げていた。
 ふと瞼を開けばやけに大きな窓ガラスの近く、誰も居ない教室に座っている。しかし椅子も机も小さくて、腕も足も収まりきらない。およそ高校生の自分には相応しくない、ガリバーの気分。
 そこは小学生のころに通っていた学校の教室だった。黒板の上の教訓、顔も思い出せない名前の日直、「自由」と書くことが決められた選択の自由が無い習字の貼り紙、子供の感性で無駄にカラフルなはずの写生はどういうわけか色褪せている。
 この頃の思い出は全て色を失っている。夢だから、という理由のみならず、実体験的に良い思い出がひとつも無かった時代だからだ。けれど、俺が前を向くキッカケを作ったやつらがいる。夢の中でだけ会う子供たち、今、彼らがどんな高校生になっているのか知るはずもなく。
 俺は小さな椅子を引いて教室を出ると、廊下にも誰も居ない、静まり返った放課後の昇降口から校庭へ向かう。いや、勝手に足が向かっていた。そこに行かなければ夢が終わらないことを、まるではじめから知っているようだ。
 ポツンとグラウンドに立ち尽くす。夢の中なのに赤いベストの中が汗をかく。ため息を吐き、薄い記憶を辿って歩いた。グラウンドの隅、うんていと鉄棒だけ置かれたところに子供たちが数名、居る。
『なんだよアキヒコ、お前まだ逆上がりできないのかよ』
『こうやるんだぜ。簡単じゃん。なんでこんなこともできねぇの?』
 サッカーボールを傍らに置いた少年が一蹴り、鉄棒をくるりと回った。みんなできるのにね、サナダくんどうしてできないの?先生も困ってたよ。女子児童がくすくす笑いながらうんていにぶら下がって云う。
 この頃の俺は、今からは想像もできないほどやせっぽっちで運動が大の苦手だった。孤児院に居た頃一緒に遊びまわっていたシンジとも、別々の家に引き取られて以後会えなくなっていた。加えて、もう一つ大切なものを失ってから僅か数年しか経っていない。シンジと出会う前の内向的な性格にすっかり逆戻りしていた。
 苛立ちが、拳を固くする。何に対して腹が立つのか。自分か、囲っている子供たちか。環境か、親か。わからない、けれど、イライラしてどうしようもなかった。
『あっ、オレ、聞いたことあるぜ』
 そのうち一人が、ニヤニヤと子供らしからぬ笑みを浮かべて大きな声でこう云った。

(やめてくれ)

『サナダはな、養子なんだってよ。貰われっ子なんだぜ、だからコイツ、変わってんだよ。だから元々俺たちとは違うんじゃねぇの?』
『親いないの?マジでえ?だから変わってんの?』
『ねえ、そういうことって云っちゃダメなんじゃない?先生云ってたじゃん』

(頼む、もう 見せないでくれ)

『僕、変わってなんか、ない』

(変わってない?いや、変わった。俺は、もう"お前"とは違う)

『そうかあ?変じゃね、やっぱ。へぇん』
 あはは、あはは。中途半端な知識で他人の傷を無遠慮に広げるのはこの年頃の子供にはありがちの失態だ。木霊する笑い声がぐわん、ぐわん、頭の中に響き、小さな身体、震える拳、歪む目元、唇を噛み締めて必死に泣くまいとする小さな自分が渦を描いて遠ざかる。笑い声も一緒に渦の中へ、そして俺も、そのうねりへと吸い込まれていく。いやだ、そっちには行きたくない、もう自分は違う、変わった、もう俺は強いんだ、あの頃の、あんなのと一緒にしないでくれ、一緒にするな、するな、する――――

「真田先輩?」
 ジィー、目を覚ました瞬間に聞こえるセミの鳴き声に、俺はまだ夢の中にいるような錯覚を感じた。ソファの肘掛に頭を乗せたまま霞む目を二度、瞬きで視覚の補正をする。ぐわんっとまだ揺れているようだったけれど、それはこの暑い中冷房の無いラウンジで寝ていた所為だろうか。何れにせよ、うたた寝してしまっていたらしい。
 短く切った前髪をかきあげて額を押さえれば、びっしりと細かな汗をかいている。
「……か…」
 外から帰ってきたところなのだろう、同じ寮に住むが氷の入った麦茶のグラスを二つ持って向かい側に座った。
 夢の中と同じセミの鳴き声(もしかしたら、現実のこの鳴き声を夢の中でも聞いていたのかも知れない)を取っ払いたくて、身体を起こして頭を振る。気分は最悪だ。
「外、すっごい暑いですよ」
 飲みますよね、差し出されたグラスが汗をかき始めている。水分を見た途端に喉がカラカラに干上がっていくようで、俺は迷わず礼を云って一気に飲み干した。目の前に座る彼女は、予想していたのだろう、驚きもせずに「こっちも飲みますか」と自分の分も勧めた。
「お前のだろう」
「私アイス買ってきたんで。んふふ、新商品なんですよーコッチは上げませんからね」
 そう云うと、半そでからすらりと伸びた細い腕にぶら下げられたコンビニエンスストアのビニール袋から、カップのアイスクリームを取り出して笑う。よく笑う少女だと、彼女が入寮して間もない頃に思ったことがあった。境遇を知ってからは、どうしてそんなに笑顔を振りまけるのか気にもなったりした。
「本当に甘いものが好きなんだな」
 古本屋のシールが貼られた文庫本を片手にアイスを食べていたは、小さな唇に薄い木べらのようなスプーンを咥えてちょっと、目を見開く。そんなにどうでもいい、ありきたりな世間話を俺が振るのは珍しいのか。これが順平なら珍しくも何ともないのに。
 順平なら。――ちくり、胸に棘が刺さる。
「しあわせになりませんか?」
「幸せ?」
「ケーキとかアイスとかチョコとか。甘いものって、もしかしたら特別好きっていうわけじゃないのかも知れないけど、口に入れた瞬間ふわんって、幸せになるんです」
 ヘラの先で一口分すくい、"幸せ"を実践してみせる。わざと、とか大げさ、とは違うふっくらとした笑みが浮かぶ。
「人気の出るキャラクター商品って、皆丸い顔なんですよ。四角とか角があるより、優しげでしょ?それと同じで、甘い食べ物ってなんか、食べてて安心なんです。辛さにヒーヒー云うこともないし、苦さに顔顰めることもないし」
 コロコロと鈴が転がる、というのは彼女の笑い声を指すのだろう。まさか「好きなんだな」「はい」以上の応えが返ってくるとは思わなかった俺は、面食らった表情をしていたのだろう。が苦笑を漏らした。
「……意外と、考えて食べてるんだな」
 感心し切った声を上げたことで、今度はが決まり悪そうに視線を寄せる。
「うう…先輩って何でそう真っ直ぐというか疑うことを知らないというか、もー、でまかせですよ。今考えました。好きなもんは好きなんだもん、ホントは理由なんて無いですよー」
 木ベラのスプーンを持った手を振り、は大きめな一口を俺に差し出した。
「論より証拠。私にとっての先輩のプロテインです。一口食べて下さい」
 二人を隔てていたテーブルから身を乗り出してまで、はスプーンを俺の顔面にずずいと差し出す。お前それずっと使っていただろうとか、目の前で一文字を刻む小さな唇に挟まれていたこととか、それらを全く意識されていないことにちょっとムッとしたりだとか、凡そ自分らしからぬ動揺が頭の中を駆け巡る。
 しかし、こちらの葛藤を想像もしないで、黙って俺が口を開くのを待つ。スプーンの先で、アイスが溶けていく。木ベラから滴り落ちそうになっているアイスと、こんなことに必死の形相を作る彼女とを見比べた俺は、ええいままよ――、スプーンを口に含んだ。
「どうですか?」
 思ったほどには甘くない。しかし、普段食べているものには無い、自分には似合わない味が舌の上にちょこっとだけ広がって、冷たい余韻を残して消えていく。
「……美味いな、確かに」
 どうやら外見にそぐわないことに、彼女は非常な頑固者のようだ。頼まれれば引き受ける、それも安請け合いではなく誠心誠意務める堅実さは高く評価しているが、たまに、断ればいいのにと批判的に見てしまうことがあった。だから、こんな風に下らないことで我を通すことがあるのだと知ると、この誰も居ない空間でもっと色んなことを話したくなってくる。
「そうだ。せっかくの夏休みですし、今度、ホットケーキ作りましょうね」
 そんな俺の心を読んだわけでもあるまいが、が云う。
「あ、スイートポテトでも大丈夫ですよ、実は、料理部で極めましたからね」
 以前二人で外出した際のさまざまなことを思い出して、そんなことも云ったな、と俺は頷いた。先ほど差し出されたスプーンはもう彼女の口の中に入っていて、俺は何となくそこから視線を外して投げ出していた足を緩く組む。
「作りましょうね、ということは、俺もか?」
 面倒だな、冗談にため息を混ぜれば、はふと目尻を下げた。
「先輩のは、私に下さい」
「は?」
 やわい笑顔はどこか儚げで、ジィー、セミの鳴き声が大きく聞こえた。
「両親を喪ってから預けられた家で不幸だったとは云いません。けど、忙しい家だったからあまり迷惑かけちゃいけないって早い内から自炊を覚えました」
 カップの底に溜まったアイスをかき集めながら、それは世間話の軽さで語られた。
「けどお前、ここに来てから自炊なんて、一度も」
 ジィー、セミが鳴く。の手が、止まった。
「外で、誰かと食べるのが、美味しくて」
 彼女がどこの街から引越してきたのか未だに知らないが、そういえば一度も、以前の知り合いの話を聞いたことがなかった。この寮に集まる人間、得てしてペルソナ使いの特色なのか、皆家庭に何かしらの負を抱えている。そんな中でも両親が二人とも居ないのは俺とだけで、それがこの"もっと知りたい"と思うが所以だろうか。
「けど、せっかくだから、誰かが私のために作ってくれたものが、食べてみたいなあって」
 俺は預けられた先の"味"は知っていても、所謂家庭の味は思い出せない。もしかしたら、彼女も?
「絶対焦がすぞ」
「大丈夫、材料にプロテインを入れちゃわない限りは風花より上手ですよ」

(コイツ、変わってんだよ)

「今の、山岸に云いつけてやろうか」
「やめて!!!」

(俺たちとは違うんじゃねえ?)

「メープル忘れないようにしないとなあ。買い物付き合って下さいね」

(親いないの?)

「真田先輩?」
「……え?」
 ジィー、ジィー。二人以外まだ誰も帰ってこない真夏の昼下がり、暑さの所為で夢から抜け出しきれていない。デジャヴに囚われて、思考が散漫だ。不安げな後輩の顔が正面にあって、俺は慣れない愛想笑いをしてみせる。さぞ不恰好なことだろう。
「いやな夢でも、見てましたか?」
 休み中はここで昼寝をすることが多い俺だが、そういえば、起こされたのは初めてだった。の言葉に、魘されていたのかとようやく思い至る。
「……お前は、」
 聞いてもいいことか、躊躇した。一巡の後、続ける。
「お前は、親が居なかったことで、何も……云われなかったか?」
 せっかく楽しい話をしていたのに申し訳なくなって、組んでいた足を解き、その間に腕を垂らす。今まで誰かと、シンジ以外の人間と自身の境遇について話すことはしてこなかった。養子先の名字で呼ばれ慣れて、もう、あの頃の弱虫な"明彦"と断絶したつもりだった。
「うーん……。同情とかする子なら、いましたけどねえ」
 同情したのと同じ口で、次の瞬間には「私の親ってこんなに勝手なの」と愚痴を零してくるのがイヤだったなあ、あれって軽い嫌がらせだったのかなもしかして。ぽつぽつと喋りながら、は食べ終えたアイスのカップをスプーンごとビニール袋に仕舞い、口を結わいた。
「実は、親が居ないっていう実感、私自身薄いんです」
 すっかり背もたれに身体を預けると、古いソファがギィと軋んだ。
「事故でしたからね、死体、見てないんです。気がついたら小さな箱になっていて」
 正面に座る彼女は、俺を向きながら過去へと視線を彷徨わせる。ついぞ、見たことがない表情である。
「実際にこの目で、死んだんだって認識が無いから、まだどこかで信じきれて、ない」
 一回、二回。頭が揺れて、ことん、首を傾げたがふふ、と笑う。

「変ですね。私」

(変じゃね、やっぱ。へぇん)

 笑顔の裏側で何を想い、何を考えているのか掴みづらい後輩が笑う姿は痛々しそうでもあり、とっくに時効のことを懐かしんでいる風でもある。笑っているのに無表情で、俺はぎゅう、と心を強く鷲づかみにされる痛みを感じた。なんだ、これは。苛立ち?違う。違うなら、何だ。

「変じゃない」

 回路をぐるぐる巡る疑問を改めるよりも先に、俺は彼女を否定していた。

「例えそこに事実があったとしても、信じられなくて、当然だろう。変なものか」

 ああ、分かった。

 否定したいんじゃない、甘えてほしいんだ。

 俺が彼女に甘えたことを云ったように、彼女にも、話してほしいんだ。

「……ありがとう」

 今度こそいつも通りの、裏の無い笑顔を見せるに、俺は、心の奥に小さく、小さく灯った想いの火種を見つけてしまった。それに付ける名前は、まだ知らない。

「せんぱいも。変じゃないよ」

 ジィー。

 セミの声が遠くなる。

 彼女の声は、とても、近かった。

真田サンが孤児という設定が非常に好きです(語弊ありそう)
特にRANK6が一番好きです。「普段は気にしちゃいないが…昔、
親が居ないせいだといわれた」のセリフに真田ぁあぁぁぁぁっ!!!
って心をつかまれました。抱きしめたい(ミスチルか)