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見えない指輪

 

 柔らかい西日がカーペットの上に伸ばしたつま先を照らしている。
 普段自室で床に座ることはないけれど、所謂、世間的に謂うところのカレシというものができてから、”彼”の部屋ではベッドに寄りかかって二人並んで座ることが多い。とはいえ、ゆかりや風花の部屋のようにラグや小さなテーブル、クッションなどは揃ってなく、彼の部屋はそこしか座るところが無いからなのだけど。
 しかし男性の部屋というともっと雑多に物が置かれている印象を持っていたが、予想に反して机の上も棚も整理整頓が行き届いていて感心した。いや、彼の性格を考えたら驚きも何もないのか。神経質、几帳面とは異なる、けれど実直な性格が部屋にも表れているといったところ。微笑ましくなる。
 お互いに部活の無い日は帰宅しがてらご飯を外で食べたり、たまに私が作ったり。二人で居られる場所には、三階の女性部屋に通すわけにもいかないから、もっぱら真田先輩の部屋が選ばれる。連れ込まれてる?と最初こそ身構えていたけれど、それこそ予想に反して、部屋では他愛もない話をしたり、DVDを見たり。たまに、キスや、抱き締められたり、されるくらい。
「寮に来て間もない頃だったかなあ。多分、順平が入ったあたり」
 お尻の下に敷かれたオレンジと黒ボーダーのクッションは、私が部屋に来るようになってから真田先輩が買ってくれた物。私専用。その上に腰かけて、伸ばした足の上に宿題用のノートを広げながらなんとはなしに口を開いた。
「二階でね、ゆかりたちと話してたときに、バシンバシンッてすごい大きな音が聞こえて驚いたことがあるの」
「うん?」
 私の手元を覗いて、サクサクと問題を答えているのを見ればひとつ頷いて真田先輩が促す。今勉強を見てもらっているところなのだ。ここ数日タルタロスの探索がきつくて授業中居眠りをしてしまうことが多かった私を、見かねた先輩が勉強を見てやるって申し出てくれたのだから乗らない手は無い。実はこういうの、ちょっと憧れだったんだよねえ。
「それ」
 先輩はもう自分の課題は終えたようで、手持無沙汰に帰りがけコンビニエンスストアで買ってきた私の雑誌を流し見ている。その視線を、指さしで上げさせた。伸ばした指の先には、使い込まれているのが分かる、傷だらけのトレーニング用具たち。
「サンドバックを打つ音だったんですねえ」
 興味本位で触らせてもらうことも増えて(いや、教え方は半端無いんだけど。全然興味本位なんて云えないんだけど。私別にボクサー目指してないんですけどネ。その内先輩の装備を装着して戦えそうな位、教えられてます。多分そこらの男子とタイマンしても勝てます。何せコーチは完勝無敗の学生チャンプなんですから)、意外に音が響くことを知った。
「順平から、明彦がトレーニングしてる音だって云われたときは何してんの?!て思ったけどパンチが凄く重たいってことですよね」
「そんなに響いてるのか…知らなかったな」
「その手でシャドウ倒してるんですものね……対戦相手殺しちゃわないか不安です」
「ダウンさせると、つい"この瞬間を待っていた"って云いそうになるな」
「ちょっ!危ない危ない!本気死んじゃう!」
 どこまで本当か分からない冗談に涙目になって笑う私の隣で、真田先輩はトレーニング用具を温かい眼差しで眺めていた。素手で戦えるなら何でも良かったと云っていたけれど、そこに置かれた物は真田先輩にとって力以上の意味を持っているに違いない。妹さん、荒垣さん以外にけして踏み込みすぎてはいけない彼の核たる部分。眩しすぎて、手が届かない。
「……あ、えっと。雑誌、面白いですか?」
 急に隙間風が吹いたように寂しくなった心を誤魔化すために、私は真田先輩の足上に置かれた雑誌に目を落とした。定期的に買う雑誌は無いけれど、季節の変わり目に一冊参考書程度に購入している。ゆかりのように買う雑誌が決まってはいない、でも美鶴先輩ほど無頓着でもない。その中間くらい。風花はPC雑誌を買っている方が多いみたいだし。
「いや……正直、よく分からん。"鉄板コーデ"、"ゼロ世代ファッション"、"おふたりさま男子"……難解だな。分かったのは、女子は服の金が掛かるってことくらいだ。高いんだな、どれも」
「んー、安い服も多いんですけど、数が必要なんですよね。小物とか」
 鞄とアクセは当然、一口にブーツやアウターと云っても同じのを着ているわけにはいかないから種類が必要、ストールとマフラーも違うし。指折り考えていると、真田先輩が云う。
「"とっかえっこカップル"って何だ?」
 一瞬、"ラブ・シャッフル"のことかと思ったけれど先輩の開いているページを見て違うと分かった。そういえばこれ、ファッション雑誌だし。
「んと、私が先輩の洋服を借りたり、逆に先輩が私の服を着たり」
「ただの変態じゃないか」
「いやいやいや、バッグとかストールとかですよきっと!そんな、スカートとかではないハズです…多分」
 そういえばこの間男性がレディスの店でストレートジーンズを選んでいた。けど、真田先輩は細く見えて筋肉質だし(そこが良いんだよね)、巷のひょろっとした男子とは作りが異なっているからサイズが分からないなあ。私の服じゃ…あ、けどこないだ買ったモッズコート、似合いそう……。
「難しいもんだな。……ああ、この記事は中々面白いぞ」
 シャープペンシルを唇に挟んで唸っている私に、もう話題を変えている真田先輩が雑誌のページをトントンと叩いた。そこには、"冬太り対策"と書いてある。読者投稿型のダイエットページだろう、しげしげと読んでいる先輩は、少しだけ感嘆の声を漏らした。
「ふうん、あながち間違いだらけ、というわけでもなさそうだな」
「そうですか?」
 トレーニングに関して云えば、こうして教えてもらう勉強内容よりも余程詳しく知っているだろう。私は少しだけ、先輩のスイッチを押してしまったことを後悔しながら続く言葉を聞いていた。
「体脂肪を燃焼するにはハイスピードエクササイズと休憩を交互に取るインターバルトレーニングが効果的だな。サプリや薬よりもバランスの取れた食事と運動が大切なんだ。女性の場合ガチガチに筋肉がつくことは無いから、筋トレを勧める」
 奇しくも、私は先輩がその話をしているとき帰りがけコンビニエンスストアで購入した百円のミニあんドーナッツを頬張っていて、キラキラと目を輝かせて女性向けダイエットを語る先輩の横で床にめり込みそうな程の居心地の悪さを感じた。
 いつもなら二口で食べてしまうあんドーナッツを噛み締めるように食べていると、顔の翳りに気がついたのだろう、真田先輩は薄っすら目元を緩めた。
「お前けど、ダイエットダイエット云わないよな」
 とっくに終わった宿題のノートと、もう興味の失せた雑誌はそれぞれの傍らに放って、真田先輩は片肘をベッドの上に乗せてこちらへ身体を向けた。皮手袋を外した温かい手が頬に触れて、ピンで留めているところから解れた髪をそっと耳にかけられる。そのくすぐったさよりも、私は一つのことしか考えられなくなっていた。
「ひっ、」
「ん?」
 ぐわっ、膝の前に手をついて身を乗り出し、真田先輩に迫る勢いで言い放つ。
「必要だと思いますか、やっぱり!一昨日は理緒たちと部活帰りにワック寄って昨日はゆかりとケーキ、今日は料理部で風花のおにぎりをこれでもかって程食べてその後で先輩と牛丼、で今はコレです!」
 ミニあんドーナッツの小袋を抱える私を、呆気にとられた様子で見つめていた先輩は、開いた口を一度閉じて、何か思案するように視線を外した。
「いや、今は必要だとは思わないが。………太るぞ」
 そう云いながら、私の手元からミニあんドーナッツを一つ取ってぽく、と口に含まされた。
「ひいながらたへさせなふでくははい」
「何云ってるかわからん」
 上目で睨みながら、わざと口にドーナッツを咥えたまま喋ってみせれば真田先輩のツボに入ったらしくて、珍しく声を上げて笑われた。私は順平と同じで、人を笑うネタにするよりは自分が笑われるネタになりたいと思う風であるから、目尻に細い皺を寄せて笑う先輩の笑顔を見て、ほっこりと胸が温まった。
 ドーナッツの端に歯を引っ掛けていたのを、手で持ってちゃんと食べようとした、矢先だった。
「よく食べるお前を見てると、こっちも幸せになる」
 真田先輩の顔が近づいて、パク、と咥えていなかった半分を持っていかれた。甘い砂糖のついた唇同士が、ちゅ、と軽く触れ合う。
 こういうこと、苦手そうなのに。ポッキーゲームとか絶対顔真っ赤にさせて逃げそうなのに。どうしてこの人って何でもかんでも唐突なんだろう酷くない?こっちの準備が整ってないときにパッとしてくるなんてズルくない?
(っていうか、はっずかしぃー)
 いつかの順平のようにおどけた調子で呟いてみるけれど、心の中は静かに混乱していた。ドーナッツはダメだと、口を開けたまま放っておいたリング型のポテトを指にさす。塩っぽい味が、甘ったるい舌を丁度よく調和してくれた。
にダイエットは勧めないけれど、お前自身はしようと思うことはないのか?食事制限とか、岳羽がよくしているだろう」
 あの子はあの子で口だけなのだ。真田先輩も、女子のダイエット宣言が口先ばかりなのはよく分かっているようで、けれどそれすらも無い私を不思議がっている。
「うーん……食べても部活してタルタロス行って、たまに先輩に付き合ってランニングして…。それで食事制限まで、したくないなあ」
 実際にお腹まわりはスッキリしているし、二の腕だって垂れてない。スラッとしている、と云われたことがあるけれど、自分では公言しないがその通りの体型だと自負している部分はあった。勿論、真田先輩のように鍛えている人から見たら全然ぷにぷになんだろうけど、女の子としては合格ラインだと思っている。
「食べることが好き、っていうよりは人と食べるのが好きなんです。美味しいねって誰かと云いながら食べられるって、実はすごく幸せなことだと思ってて」
 寮住まいになってからは外食も多くなったけれど、それでも誰かしらと一緒に取ることの方が多い。ラウンジでテイクアウトを食べるのだって、好きだ。ようは喋りながら食べたいのかな、行儀は悪いけど。
 云えば、真田先輩は頬杖をついたままジッと私の方を見ていた。やっぱり言い訳にしか聴こえなかったかな、とため息を吐いて、ポテトを指にはめて食べる。
「そんな細いの指に入るのか」
「は?あー、クセなんですかね、指にひっかけれるのはこうしちゃうんです」
 くるりとポテトを回してそのまま口に含み、先輩の言葉が気になってポテトを一つ、真田先輩の指にはめようとした。指先は入るけれど第一関節までもいかない。骨ばってるからかな、やっぱりどんなに細くて綺麗な手だと思っても男性なんだなあとしみじみ考えていたら、先輩がうっすらと笑った。
「手」
「ワン。って、犬じゃないんですからね」
 コロマルのような忠犬を演じてみせるけれど、真田先輩は微笑んだまま私の手とリングを持って、するりと一つ、指に嵌める。
「ああ本当だ、スカスカだな」
 クスクス笑う声。けれどその内容よりも、ポテトを嵌められた指をじっと見てしまった。
 左手の、薬指だ。

(ふわわわわわわわわ)

 どこかで酒を呑んできたのかと思うほど、素面でするには恥ずかしい行為だ。熱?風邪ひいてる?けど昨日のタルタロス先輩は上らなかったし体調は良いよね。っていうことはこれ素?素なの?ちょっと何この人恥ずかしいよ、存在が恥ずかしいよ!

「誰かと食べるのが好きなら、俺がずっと一緒に居るから」

 頬杖をついていないほうの手が伸びて、頬に触れ、頭を引き寄せられた。あまりの恥ずかしさに思考停止もいいところだった私は、何の抵抗もなしに先輩の肩に顔を寄せる。真田先輩の指にポテトを嵌めた私へのお返し、さっきのはまるで指輪交換の真似事だ。嗚呼、何だろうコレ、呆れていいのか喜んでいいのか、もう分からない。
 はあ、と吐き出した吐息が先輩のベストに吸い込まれていく。鼻先に香る洗剤の香りが心地良くて、ニットに指をひっかけて抱き返す。あったかいなあ。
 次第に恥ずかしさの薄れてきたところに、真田先輩が小さく、ごく小さな声で呟いた。
「俺も同じなんだ。お前と会ってから、飯が美味いと感じる」

 それまではずっと、一人で食べることが多かったからなんだな。

 間近で覗く瞳には嬉しさしか見つけられなかった。それでようよう気がついた。冗談の中に本音を紛れ込ませたことも、よく食べる私に幸せを見出すことも、全部。彼の生い立ちを考えれば簡単なことで、簡単すぎるからこその影の深さも、見えてきた。
 私は両頬を包まれたままでちょっと、さっき指にはめられたポテトを食べた。きちんと飲み込んでから、真田先輩を見上げた。
「食べちゃいましたからね」
「ん?」
「指輪、返せませんからね。約束反故にしたら裁判ですからね」
 何だろう、このやり取り。今どき幼稚園児のおままごとでも無いような茶番だ。
 けれど、私が、私たちが誰かと今後を生きたいと冗談でも願うっていうのは、大きな、大きな意味を持っているから。

 真田先輩はちょっとだけ、眉を下げて、瞳を細めた。唇が触れる間際、薄く聞こえた言葉に、心の中で返事を返す。
 今度のキスは、ちょっとだけしょっぱかった。

(一緒に居てくれ)

部屋デートは基本です。ウェブで適当に検索してみっけた本のうたい文句を
使っただけなので、文中で使ってる言葉が流行ってるとかは無いと思います。
私は好きなブランドでしか服を買わないので流行とかサッパリでやんす。