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重ねた嘘すら愛しくて

 

 朝日に溶け込む海面の輝きといったら、この光景を守るために戦おうと改めて思わせてくれるほどのものだった。上を見ても下を向いても同じくらいの青、真っ青で、白い青。この日一緒に登校していたゆかりが隣で、良い天気だねと呟いていた。
 数時間前まではどろどろの影時間に覆われていたことを微塵も匂わせない、陰りの一片も見当たらない景色。反して、私の心は起きたときからどんより窪んでいた。
 スヌーズ機能を止めてまで二度寝してしまい、せっかく夕べの内に作り置きしておいたお弁当のおかずは荒垣先輩のお昼ご飯になってしまうだろう。いつも左側に留めているピンの位置が、何度直してもズレているようだし、髪も上手くまとまっていない。リボンも不恰好な気がして、ゆかりの胸元でゆらり、ゆらりと揺れるほのかな赤が眩しくて、自分が恥ずかしくなる。
 せっかく出掛けるんだからとお洒落しようと思うときに限って洋服が決まらない、外に出たら益々、靴が違う鞄が違う、インナーはあっちが良かったボトムはスカートにするべきだったとか、悩みがちだけど制服だって同じこと。女の子は、気になりだしたら止まらない。
 寮を出て一つ目の、いつもなら引っ掛からない信号機につかまり、電車も一本逃した。昨日も一昨日も入り口近くのポールを背もたれにできたのに、今日は無理だった。
 お昼休みも、お弁当が作れなかったから一人で売店に向かうと、やっぱりお気に入りのパンは売り切れていて、三番目に好きなパンしか残っていなかった。今日はお前の気分じゃないんだよ、と恨み言を噛み締めながら食べるパンはちっとも美味しくない。
 これでタルタロスなんて行った日には、攻撃を空振りして追い討ちをかけられちゃったりするのかな。決してミスを犯せない場所での不手際は仲間の命にも関わってくるから、探索は中止にした方がいいかも。

 全部 全部、"今日"という日を形作るものの全てが私に憂鬱を齎していた。

 生徒会の定例会が終わり、生徒のあらかたが下校した校舎は昼間と違う顔を見せている。ひっそりと静まり返っていて、下駄箱まで一緒だった小田桐くんとの会話も、ささやかで。最近の彼は雰囲気が丸くなって、ギスギスしていた生徒会の空気も段々と柔らかくなってきていた。ほのかに笑む横顔はとても穏やかで、沢山苦しんだ分の成長が垣間見える。男の子って、こういう所が羨ましい。ちょっと目を離すと一歩も二歩も先を行ってしまうんだ。
「……あれ?」
 下駄箱からローファーを取り出したとき、ふとした違和感を覚えた。思わず上げた声が響いて、下駄箱の裏側から靴を履き替えた小田桐くんが顔を出す。
「どうしたんだい?」
「ん…、何か忘れ物をしたような気がして……」
 説明しながら鞄をあさると、ビンゴ。最後の授業の後順平に返してもらった辞書が入っていない。生憎と明日に回せない量の宿題が出ていて、寮の誰かに借りることも出来るけど、取りに戻れない距離じゃない。靴もまだ中履きのままだし。
「辞書忘れたみたい。取りに戻るね」
「君はたまにそそっかしいな」
「云わないで。あーあ、せっかく小田桐くんと寄り道して帰ろうと思ったのになあ」
「風紀委員を取り仕切る僕を誘う人間は君と、慶介くらいだろうな」
 ローファーを戻して、小田桐くんにおどけたことを云うと珍しく彼もノッてくれる。転入して間もない頃から生徒会役員としての付き合いも長くなったけれど、彼とはご飯を食べて帰ったことも、休日に出掛けることも無いまま九月になってしまった。
 話してみれば意外と面白い人だから、結構気に入ってるんだけど。
「じゃあ、また生徒会で」
「ああ。寄り道しないで帰るんだよ」
「はあい」
 お兄ちゃんみたい。いや、こんな厳しくて頑固な兄はイヤかも知れないけど、きっと面倒見いいんだろうなあ、と小田桐くんと別れた後で誰も居ない階段をトントントン、早足で駆け上る。踊り場にいる女子、生徒会室前の桐条ファン、仲良しの二人組、よく見る姿も既に無く、本当に一人。
 勇気百倍、でもちょっとだけ怖くて、私はさっさと机の中から辞書を引っ張り出してさっきよりも早く階段を駆け下りた。
 と――
「――、こと、」
 誰かが話す声が、階段の下から聞こえてくる。さっきは居なかったのに、水飲み場の前に誰かが居るようだった。女の子の声だったけれど、それがピンと緊張を張り巡らせているのに気がついてつい、立ち止まってしまった。
「好き、です。本当に、凄く好きなんです」
 うっわあ、本当にあるんだこういうシチュエーション。誰も居ない放課後の校舎、好きな人を呼び出して、もしくは部活が終わるのを待って話しかけたって感じ?うわあ、がんばれ青春少女。
 心の中で下らないエールを贈り、ここは邪魔しない方がいいだろうと別な階段へ向かうべく背を向けた、そのときだ。彼の声が耳を打った。
「……何度云われても、答えは変わらない」

 ドッ

 耳のすぐ傍で地響きが鳴り、手すりに置いた手は力を込めてザラついた感触を掴んだ。汗が滲む。ドッドッド、身体中が一個の心臓になってしまったように、そこかしこが跳ね上がっている。幅の狭い階段の踏み場から、危うく踵が落ちそうになって、そうっと音を立てないように体勢を直した。ギギギッとうまく動かない。
(真田、先輩だ)
 ド、また鼓動が押し上げる。呼吸が苦しいと思ったら、無意識に息を止めていた。
 レアシャドアの背後を狙うとき同様全神経を研ぎ澄ませて、ここぞとばかりに日々の戦闘で身につけた集中力を発揮させる。踊り場を曲がった下階では、真田先輩の返答を聞いても尚諦めきれない女生徒のか細い声が落とされていた。
「よく知らない女子から、告白されても迷惑だっていうのは、分かります。だから、一週間だけとか、でもいいので、知る時間を頂けませんか」
 考え、考えて考えて考えた末の告白なのだろう。どんな子か分からないけれど、健気で一途だ。何度もトライする勇気、男気のある自分でもきっとできやしない。
 私は逃げることも進むこともできず、仕方なく階段に座り込んだ。何となく、事の成り行きを知っておかないと、真田先輩とぎくしゃくしそうな気がした。
「私、どうしても諦めきれないんです、先輩のこと……」
 胸が押しつぶされそう。ああ、どんな気持ちで、どんな顔で真田先輩の前に立っているのだろう。私はあんな風に誰かを好きになったことは無い。前の学校に居たときに付き合っていた彼とも、結局キスもしないまま転校を境に有耶無耶になってしまったけど、それを残念だとも未練にも思っていないから。
 人を好きになるって、どういうことなんだろう。
 分からない。
 頬杖をついてしんみりと彼女の声を聞いていると、言葉最中で真田先輩の声が廊下に低く響いた。

「すまないと、思ってる。けど、……もう、心に決めた相手が、いるんだ」

 ―――ドッ、

 今までで一番大きな動揺が、すーっと背中を冷やしていく。踊り場の窓から差し込む光が細くなって、心に同調するように辺りが薄暗くなっていく。ピチョン、と水飲み場の水道から水滴が滴る音がやけに近かった。まるで、私が告白しているみたい。全然、知らなかった。よく喋るようになったと思っていたけれど、好きな人がいたなんて、分からなかった。
 がなる鼓動が下にも聞こえる気がして、私はぎゅうとリボンごと胸元を握り締めた。
「どんな人、ですか?」
「……どんな?」
 聞きたい?野次馬?興味?いや、私は、
「好きな人、ですよね。どんな方なんですか、その、人」
 聞きたくない。野次馬じゃなくて足がすくんで立てない。興味、違う。…怖い。
「どんな……」
 どく、どく、心臓が鳴る。すっかり夕方の冷えた空気が場を満たし、短いのにとても長く感じる一秒。時計の針が優に十の秒数を刻んだとき、校内の女子が絶賛する声が、たった一人の人間について音を紡ぎ始めた。
「強い、子だ。頼んだ以上の成果を見せてくれるのに、努力する姿は表に出さない。……自分の非力さを、たまに感じさせられる」
 頭の中で、真田先輩の身近な女性を思い浮かべる。一番当てはまったのは、やっぱり桐条先輩だったけど、真田先輩の寮以外の交友関係をちっとも知らないんだということを改めて知り、さびしくなった。どうして寂しいのか、幾らなんでも分かる。
 こんなところで自覚するなんて、もう、ヤダ。今日は本当についてない。
 抱えた膝に額を押し付けながら、下階の顔も知らない女子に心を重ねた。真田先輩が云う。
「実際は多分、脆くて、弱いのに、俺たちの前では強い人間を演じ、壁を作って。それが、腹立たしい。こっちも頼れ、とか守ってやりたいと、思う」
 ああ、本当に好きなんだ、ってよく分かった。
 じんわりと滲んでくる涙が痛くて、私はもういいよって思った。告白した彼女は、よく聞いていられるな。私は、もう無理だよ。自分から告白できる子って強いんだな。
「俺と似てる境遇で生きてきて、俺を、一人の人間として認めてくれてる。だから、……そうだな、好き、なんだろうな」
 私はずっと、その場に蹲っていた。自覚した途端に失恋、とか、ありえないって笑っちゃった。ゆかりとケーキバイキング行って貪り食べてやろうとか、レベルの低いシャドウをメギドラオンの連発でいじめてやろうとか、色々考えたけど一番したいことは、

 ベッドで、泣きたかった。

 *

 交番、骨董屋、ベルベットルーム、ファーマシー。どこにも寄らないで、小田桐くんが云った通りまっすぐ寮に戻ったけれど、どこをどう歩いてきたのかさっぱり覚えていない。耳に嵌めたイヤホンは、形としては収まっていたけれど再生ボタンすら押していなかったみたいで、音を止めようとして逆に音楽が流れ始めたときは驚いた。驚いて、私は、ちょっとだけ泣いた。

 ピピピピ。

 すん、と鼻をすすって顔を上げれば、机の上で携帯電話が動いている。ブルーの着信ライトは、ベルベットルームのテオドアからのもの。賢く、鋭い彼に気づかれないように頬を拭って、私は五回目の着信音の後通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし、テオドアでございます。どうやらタルタロスに新たな迷い人が出たようです』
「あ……本当?ありがとう、今日行って、助けてくるね」
『はい、よろしくお願いします。……あの、どうかなさいましたか?お声がいつもより、』
「寝てたから、じゃないかな?最近寝不足なの」
『……そう、ですか。ご無理はなさいませんように。それでは、失礼致します』
 テオドアは優しい。あの人が人間だったら絶対付き合ってた。
 と、顔を洗って少しはマシになった自分の顔を見ながら思ってみるけれど、付き合うっていう言葉の持つ意味がよく分からないのも事実。付き合いたいと願うのと、好きだと想うのは同時進行する気持ちなのだろうか。だって、私はもう、好きだって想っても付き合いたいって願うことは出来ないのに。
(とりあえず、タルタロス、行かなくちゃ)

 攻撃を空振りして追い討ちだけは食らわないようにしないと。

 *

「ベルゼブブ!」
 蝿の王が振るう巨大な杖から万物を破壊する強烈な光が放たれた。武器での攻撃でも倒せる相手に使う魔法ではないし、私の攻撃スタイルにも反する戦い方だ。けれど抗えない長大な力を前に成す術なく倒れていくシャドウたちを見ていると、心が軽くなっていく。自分を投影して、自己の弱さを消していっているみたい。
「ちょっと、どうしたの?容赦なさ過ぎない?」
「シャドウにかける容赦なんて、土台無いでしよう?この階に居るはずだから、散開して探そう」
 背中に落とされた小さな絶望が焦りを生む。薙刀を握り直して、ホルスターの召喚器を確かめるけれど、いつもより頼りない気がして落ち着かない。
 ゆかりと順平が背後で何かを囁きながらも、私の指示には従ってくれた。お互いの通信機の調子を確かめて、各自違う方向へ走っていく。

 三方向に分かれていた道の一本を進んでいると、後ろから私を呼び止める声がした。今一番聞きたくない声だった。
 私は目の端でシャドウが逃げていくのを舌打ちする気持ちで見送り、振り向くことなく応えた。
「なんですか?」
 額に浮かぶ汗を拭って左右を確認していると、隣に並んだ真田先輩がその動作を止めた。
「今日、な。あれを実践してみたんだ」
「あれ?」
 隠語で伝わるほど理解し合っているとは思えない。私は真田先輩の心が誰に向かっているのかすら知り得ないんだ、先輩だって全然わかってない、私、今喋りたくないのに。
「今度告白されたら、付き合ってるヤツが居るって云おうっていうの」
「……え?」
 ピタ、視線を前向かせたまま足と思考だけが止まった。
「流石に付き合ってるとは云えなかったから、好きなヤツってだけにしたけど、助かった」
「え?」
 温かい風に背を叩かれた気がして、私は少し先を探る真田先輩の後姿を見つめた。
「お前のこと、考えてみたら結構具体的に云えたみたいでな。すっかり信じてくれたぞ」
「……あの、話が、よく」
「なんだ、忘れたのか?」
 シャドウが襲ってこないことを確認した真田先輩は、数歩先から真っ直ぐ、私の方を見た。仕方ないなって笑いながら、本当に嬉しそうに、安心した笑顔を、向けてくれている。
「休みにアドバイスくれたろう。後輩の女子に連日手紙だ差し入れだ貰って困ってるって云ったら、お前、付き合ってる子がいるって云えばどうかって。丁度今日の放課後、呼び出されてな。試してみた」
「あ……え、」
 顔に熱が集まっていくのが分かる。影時間は体感する温度が常に一定なはずなのに、カアッと身体が熱くなっていく。
「付き合ってるって云えばお前に迷惑がかかると思ったから、俺の片思いってことにしておいたし、名前は出してないから安心しろよ」
 あっという間に赤く染まった頬を俯かせて、けどどうしようもなく緩む顔は抑え切れなくて、私は、勘違いにようよう気がついた。
「それにしても凄い効果だったぞ、俺の演技力も大したもんだな」
「あの、私を思い浮かべたって、」
「ああ。俺が普段感じてるまま云っただけだったんだが、『勝ち目なさそうですね』だってさ」
 私だって思った。
 だって、あんなの、好きな人のこと云ってるとしか思えなかった。
 安心したら次は真田先輩が自分を思って云ってくれたことを考えてしまい、また相手の顔が見れなくなった。
「誰にも云いませんって云うから、言触らしてくれるよう頼んだよ。これで少しは減ってくれるといいが……」
 もう真田先輩の声は聞こえなかった。通信機に入る、遭難者を発見したゆかりの呼ぶ声と、私を促す先輩の声が重なる。薙刀を持つ手が震えて、何も持っていないみたい。

 先輩にはまだ好きな人は居ないって分かった。

 けど、先輩への想いを自覚してしまったことに変わりはなく、想いが消えるという結果はイコールにならない。
 冗談でも、"好きな人"に私を思い浮かべてくれた。嫌われては、いないんだろう。

 真田先輩の肩越しに、ゆかりと順平が見えた。私は、弾む心を落ち着かせると、通信機に叫ぶ。
 「救出して、一度入り口に戻ります!」

 好き、を

 嘘ではなく、したい。

RANK6の休日イベから。付き合ってる人→お前、という流れには
真田先輩ちょっと面貸してって思った。天然たらしほど手に負えないものはない。