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痩せた野良猫みたいに威嚇

 

「……猫、ですか」
 ベルベットルームの主、イゴール氏が視線を巡らせる先で、紳士然と佇む青年が思慮深い笑みを見せて頷いた。テオドアの依頼に関しては無関心な嫌いのある長鼻の老人は、くべた視線を戻してそ知らぬふり。無邪気な青年と私だけ取り残される。
「猫に、ご飯をあげてくればいいんですね?」
 私はもう一度依頼内容を繰り返した。
 7月8日、満月の作戦が終わって間もない夏の入り口。試験週間に入ったら中々来られないからと、達成期限のありそうな依頼をチェックするために訪れた青部屋だった。案の定複数の新しい――例の如くシャドウ討伐という物々しいものも含まれているのだが――依頼が書き加えられているファイルの中で、それだけ異質に感じられた。いや、酷く人道的かつ真っ当な"お願い"でちょっと、戸惑ったと謂うが正しい。
「すっかり痩せていて…なのに、何故皆さんご飯を差し上げないのでしょう?」
「う、ん。キッカケでもあれば……私だって、テオに云われなかったらきっと」
 しかも件の猫さんが居る場所は"あの"路地裏だと云うではないか。そんなところにいる人間、偏見かも知れないが、野良猫に餌を上げる図は想像だにできなかった。
「そうですか。……そう、ですね」
 余程この青年の方が人間らしい心を持っている。純粋で、愛に溢れていて、温かい。人間"らしい"という意味をよくよく考えさせられる人物である。
 憂いに目蓋を落とすテオの高い位置にある顔を見上げて、私は安心させるように意識して微笑みかけた。
「けど、テオが気にかけたから私にもキッカケが出来たし。多分一度じゃ元気にならないと思うので、何日かあげてきますね」
 きっかけがなければ猫に餌もあげられない自分が情けない。私が普段、どれだけの命を見捨てているのか実感させられる、とは大事にし過ぎているかな。野良猫や野良犬のことを可哀相だと思っても、今持ち合わせがないしなあ、で見なかったふり。命の前を通り過ぎることを覚えると、テオドアのようにアクションに起こす気も湧いてこないものだ。
 お願いします、と気がかりの一つを私に託すことで安心したのか、その時のテオドアの笑顔はとても晴れやかだった。

 帰宅後、私は自室のベッドに寝そべりながら、カレンダーを睨んだ。
 夏休みも早々から交流試合に向けた特訓が開始される。他にも予定が入ることは想定の範囲だ。昼間にしか行くことが許されていない裏路地の猫に餌をあげる時間、か……。
 ううん…とりあえず今日一回あげてきたけれど、試験あけのお休みが長いからその時でもいいかな。期限は無いって云われたけれどやっぱりね、生き物だと思うと八月以降まで放ってはおけない。それまで素通りしてきたくせに、調子いいなあ……。
 枕を抱えて顔埋めると、満月時の疲れが完全に癒えきっていなかった私はすぐに、とろとろと眠りの縁から落ちていった。

 *

「やくしまぁーーー!」
 幾月さんの提案で屋久島にある桐条先輩の別荘へ行くことが決まり、今日まで重油に浸るような重たい空気が立ち込めていた寮内に少しずつ明るさが戻りつつあった。それでもまだ眉根を顰めた物暗しい顔をしているゆかりと桐条先輩を横目に捉え、順平の明るさに便乗して諸手を挙げて小旅行を歓迎する。
 夏、ビーチ、水着、別荘。ポジティブな単語はいくらでも挙げられるが、環境を変えること自体が最も手っ取り早く気分を一新できる好機会となるだろう。
 これで少しは場も立ち直るかしら……段々とチームリーダーたる心根が生え始めた私は、自室の机に向かって手帳を開いてようやく、猫の餌をあげる予定が崩れたことに気がついた。あと一回くらいで猫は充分な元気をつけてくれると確信しているのだが、まさか試験あけの休みが丸々潰れるとは予想もしなかった。
(……どうしよう)
 ここ数日、部活や同好会が無い日を狙って猫に会いに行く放課後が続いていて、すっかり猫に情が移った私は頭を抱えた。
 ひょろりと痩せた身体を必死に奮い立たせて威嚇していた猫が、今では私に喉元を差し出してくれるまでになった。毛の色艶も目の輝きも、もう随分とマシになってきている。
 どれだけ睨もうと変化の起きない手帳の日付を前に、腕を組んで悩んだが、選択肢は一つしか残されていないことはもはや明白であった。私は、仕方ないと呟いて、私服に着替えると鞄の中に召喚器を押し込んでそっと寮を抜け出した。

 *

 交通機関が麻痺する影時間、新都市交通あねはづるの終点ポートアイランド駅前で自転車を停めた。影時間に入る午前十二時は終電前ということもあって駅前には無数の棺おけが点在していた。特に劇場前に集中しているのはレイトショー後の客なのだろう。もう、見慣れてしまった光景である。
 明かりの無い駅前、ぼんやり闇夜に浮かぶは赤く発光する棺おけ、タルタロスよりも薄気味悪い空気が漂う。私は鞄の中から召喚器を差したガンホルダーを取り出し、ここに来る前にベルベットルームで作ってきたホルスを召喚する。
「電気代わりにしてごめんね」
 燈色の温かみに溢れた光を放つ太陽神は、意に介することもないのか、こちらをチラリとも見ずにふわふわと漂っている。私は彼を従えて裏路地へと向かった。
(ねーこ…ねこ、ねこ…)
 昼間猫がいる場所には何も居なかった。雀荘の周囲にたむろしていた人間の果ての姿はいくつか在ったが、猫はいない。……っていうか、考えてなかったけど、もしかして猫も棺おけになってたりするの、かな?
「いや、けど、人間以外の棺おけなんて見たことないし……」
 探せばいるだろうと思い、私は自転車を路地の入り口に置いて、棺おけの間を通り抜けていく。スプレーの落書きよりも趣味の悪い赤黒い液体が、目の端でどろりと壁を伝い流れた。ヒヤリと素足を撫でる風がどこからか吹いて、私は息づくモノが居るはずのない空間をぐるりと見渡した。誰も居ない。
 カン
 そう、誰も居ないことに安堵の息を漏らした瞬間、地下のバーへ続く階段の奥から物音が響いた気がした。
 飛び上がらんばかりに驚いた私は、未だ頭上に具現化させたままだったホルスを身構えさせる。カン、カン、カン。物音は明確な足音となって階段を上がってくる。ん、足音?
「……あ、」
「――おめぇ…」
 現れたのは、こちらもホルスの明かりにやや構えた様子の少年だった。一度目は真田先輩の病室で、二度目はこの路地裏で世話になった先輩だ。確か名前は、
「荒垣先輩」
「……お前、こんなトコで何してんだ」
「猫に、あの、ご飯をあげに」
「……はあ?」
 わざわざ路地裏に。わざわざ影時間に。わざわざ猫に餌を与えに。
 並び立てれば衝動的と云わざるを得ない行動に、今更だが自分でも呆れてしまう。荒垣先輩はどこか唖然とした面持ちで口を開いて見下ろしてくる。うう、怖い。この人眼力ハンパないんだけど。
「あーけど、姿も無いし、帰ろうかなって、思って。……そういえば、その格好?」
 以前二度会った際の彼はニット帽にロングPコートで、夏場でその格好ってどうなの?と真っ先に思わせる井出達だったのに対して、この日の荒垣先輩は帽子を被っていないし、タートルネックのセーターは相変わらず暑そうだけど、気になるのは優に膝下まである真っ黒な巻きエプロンをつけていることだった。そして片手には、小皿。灰皿ではないし、ちょこんと盛り付けられたおかずは彼が食べるためのものでもなさそう。もしかして、
「先輩も、猫に?」
「……………たまにな」
「エプロン…」
「………ここで働いてんだよ」
 たっぷり間を空けながらもぽつぽつと応えてくれた。聞けば高校は休学しているらしいが、最低限の衣食住には困らないよう働くしかないと低い声が呟く。酒を提供する深夜のバーで未成年が働いてもいいのかと表情で問うてしまい、荒垣先輩が苦笑を零した。考えが顔に出易い性格なのが恨めしい。
「厨房から出るのは影時間の間だけだ」
 そう云うと、彼は手の平で小皿を弄びながら近くの階段に腰を下ろした。その際に手荒く退かせた棺おけが、バタンッと大きな音を立てて倒れる。うわあ、大丈夫かなアレ。
「お前、一人なのか?」
「はい。だー…れ、かに云ったら絶対止められると思ったので、こっそり」
「後でアキに云いつけておく」
「ちょっ、先輩たちだけはやめてください!」
 笑いもせずに真顔で淡々と云うものだから本気と捉えてしまい、焦った私はホルスを仕舞うと、両手を振って荒垣先輩に詰め寄った。秋霜烈日の桐条先輩、理路整然の真田先輩、どちらもまともに取り合ってくれないことは火を見ることよりも明らかなり。
 荒垣先輩の隣に腰かけた私は、足元に小皿を置いてきょろりと辺りを見渡す横顔を眺めた。長い前髪が目元にかかっているが、目尻は切れ上がっていて意思が強そう、全体的に作りがしっかりしていてとても男性的だ。真田先輩とは付き合いが長いようだけど、随分と印象が違う。向こうは鍛えても線が細いタイプで、色白で小顔だし、綺麗系。睫毛なんて私よりも細やかで長くて、むしろ嫉妬の対象。この人は、カッコいいっていう言葉が似合うかな。
 落とした視線をもう一度上向けたとき、荒垣先輩が私を見ていたことに気がついた。
「お前、あそこには最近入ったのか?」
「あ、はい、えーっと、最初は寮生として。けどすぐにペルソナに覚醒したんですけど」
 云いながら、それ程前ではない筈の満月を思い出した。今の自分が体感している影時間なるものの存在も知らない、ペルソナ能力も無い、そんな頃が懐かしくもある。
「……後悔はしてないのか。こんな戦いに巻き込まれて」
 そうして私が数ヶ月前に思いを馳せていると、見透かしたような問いかけが降ってきた。熱血という言葉の似合う真田先輩と異なり、その考えは読み取れない。
「戸惑ったことは確かです、けど、今は特に。私だけかも知れませんけど、"何かしている"と思える行為ってそれだけで、自分の存在意義を見出せるようで、とにかく頑張ろうって、思えます」
「そうか……」
 沈黙が過ぎていく。どうして活動から外れてしまったのか、どうして真田先輩に素っ気ないのか、色々気になることはあったけれど私は荒垣先輩自身のことをよく知らない。
「……アキは、お前から見てどうだ。アイツ、ガキだろ?」
「ガキ、って」
 桐条先輩に窘められている姿を思い出して笑うと、荒垣先輩から醸しだされる空気が少しだけ色を変えた。
「昔っから一人で突っ走って周りに迷惑かけて、多分、良い先輩なんて出来てねぇんじゃないかとな、思ってよ」
 思い当たる諸事はしかし、憎めない。口先ばかりで女を見下す男ではないし、真田先輩は誰よりも努力して、自らを鍛えている。そして真田先輩が突っ走ろうとする理由はただ、シャドウとの戦いに楽しさを見出しているだけだからじゃないともう分かってしまったから、私はふるりと首を振った。
「真田先輩が直向に頑張れるのは、全て、昔のことがあったから、なんじゃないですか?」
 私がそう云うと、荒垣先輩はくるりと目を見張る。
「アイツ、話したのか?」
 云ってから多少はしまった、と思ったものの、彼の反応から承知のことなのだろうと推測して続けた。
「あ…はい、あの。子供の頃のことと、妹さんの、ことは」
「美紀のことも?お前にそれ話したのか?」
「は、はい」
 じい、とこちらを見つめる目には純粋な驚きと、幾ばくかの疑心が張り巡らされていた。やっぱり、真田先輩のことが嫌いで"良い先輩が出来ない"人だと云ったんじゃない。憎まれ口を叩きながらも、実際は彼のことが心配で、離れている間の動向を気にかけているだけなんだ、きっと。
「そうか……話したのか、アイツ…」
 深い声の思量を推し量ることなど不可能で、私はただそう呟いてじっと目を瞑る先輩の横顔を見つめることしかできなかった。ゆっくりと再度振り返った荒垣先輩の顔には、それまで靄のようにかかっていた疑心は見受けられず、逸らすことを許さない強い眼が鈍い光を宿していた。トク、と心臓が鳴る。
「勝手なこと云うようだが、アイツが昔のことを話した理由、ちょっと考えてやっちゃくれねえか」
「え?」
「アキは全然気がついちゃいねぇんだろうけど、多分……」
 きゅっと下唇を引き結んで、私はショートパンツの裾で手の平を拭う。影時間は昼間のような暑さを感じない空間な筈なのに、やけに喉が渇いた。私を心配していると打ち明けてくれて以来、学校で見かけても真田先輩は誘いに応じてくれなくなった。
「私、けど、今避けられてるみたいで。理由考えろっても、力不足じゃ」
「いや大丈夫だ。云ったろ、アイツぁガキなんだよ」
 そこで荒垣先輩はほんの少しだげ笑みを作り、さてと、と立ち上がる。足元に置かれていた小皿は再び彼の手の上へ、段差を飛ばしてバーへと足を向けた彼は、未だ同じ場所に座っている私を振り返る。
「影時間が明ける前にさっさと帰れ。すっかり忘れてたが、影時間に生きてる動物を見たことがねぇ」
 片手をぞんざいにエプロンのポケットへ突っ込み、荒垣先輩はそう云うと階段を下りていった。思考が働かない体は立ち上がるのも億劫だが、パン、とショートパンツの汚れを一叩き、私はそろそろと自転車に跨る。

(アイツ、話したのか?)

(昔のことを話した理由、ちょっと考えてやっちゃくれねえか)

(アキは全然気がついちゃいねぇんだろうけど、)

 ぐるり、ぐるり、荒垣先輩の声が脳内で幾度も反芻される。ゴトンゴトンとまわり続ける洗濯機のように、同じところをぐるぐると回転して、だけど沢山の固まりは次第に一つの、明確な答えを形成し始めていた。
「嘘」
 呟いた声は風に乗ってどんどんと遠ざかっていく。自動車も歩行者も居ない空間を、ひたすら強く自転車のペダルを踏み込んだ。
 荒垣先輩、ダメだよ私、すっごく自分の良いように捉えそうだもん、重たい過去を話してくれた理由なんて、そんな、の、私なら……私だったら……。

 鞄の中の猫缶と、召喚器がぶつかって小さな音を立てた。

 頬の熱さは、寮に戻るまでに果たして収まってくれるのだろうか。

ガキさんは飲食系のバイトしてるでしょ。
当方のガキさんは真ハムを見守るオトン役です。