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よくある奇跡

 

 おにいちゃん、おにいちゃん。文字通り転がるように駆け寄ってきた妹が、慌てて広げた両腕の中にすっぽりと埋もれる。ほっそりした小さな体を抱きしめると、ふんわりと日向の香りが漂った。一日外で遊びまわった髪の上には茶色い葉っぱがくっついている。苦笑して、それを取ろうとしたら隣からサッと掻っ攫う手があった。
 身長がみるみる伸びて見上げる程になった幼馴染が、いつの間にか横に立っていた。
「美紀、危ないから走るなってあれほど云ったのに」
 窘める声にも力が入る。以前にも同じようなことがあり、そのときは受け止めるより先に転ばれて大泣きされる羽目になったのだ。怪我に気が付いた瞬間からわんわん泣き叫び始めた妹を宥めるのは、相当に骨が折れる作業だった。柔らかく薄い皮がめくれ、土と血で汚れていて、子供の目から見たら大怪我の部類であるそれは、今でも引きつったような跡になっている。
 男である自分や、幼馴染なら怪我の一つや二つ屁でもないのだが、妹はダメだ。女の子なんだ。小さくてやわくて可愛い、守るべき存在だ。怪我なんて、しちゃいけない。
「だって……せんせがね、ツリーを出してたから、おにいちゃんたちに教えなきゃって」
 語尾がどんどん萎んでいき、瞳の中にぐるりと潤みが差す。
「そっか。もうクリスマスなんだ」
 幼馴染がぼんやりした声を上げて美紀の頭をふんわりと撫でる。シンジは甘過ぎる。怒っている自分と、頭を撫でてくれる友だったら誰だって友に縋りつきたくなるだろう。未だ腕の中に閉じ込めたままの妹は、シンジを見上げてはにかむような笑みを浮かべた。おませな笑顔に、少しだけムッと沸き立つ不快感。
「なら、やっぱりいい子にしなきゃダメだよ。今年はサンタさんが来てくれなくなるぞ?」
 なだらかな額をつついて、ようやく体を解放してやれば案の定妹はシンジの腕にくっ付いて情けない声を上げた。
「えええ、やだっ、やだぁ。いい子にする、もう走んない!」
「アキ、あんまいじめんなよ。美紀も大丈夫だって、まったく怖ぇおにいちゃんだな」
 兄とよく似た色のくせッ毛を慈しむようなだらかに撫でる手が、僅かに唇を突き出して不貞腐れる妹が、毎年のサンタさんが誰かも知らないくせに、とささくれた想いを小さな胸に落とす。
「じゃあ美紀はシンジにあげる。僕、もう知らない」
 真冬には到底相応しくない薄い生地のパンツをぎゅっと握り締めて、俯きに零した言葉は冷たい風に攫われていく。声に出すと益々自分よりもシンジのほうが美紀に似合いの兄に感じられて、感情が飛躍する。
 もう外で遊ぶ子供たちの居ない方向へ走り出すと、戸惑った複数の声が名前を呼んだ。アキ、おにいちゃん、どちらの呼ぶ声が多かっただろうか、美紀だったかも知れない。
 けれど、追いかけてきたのはシンジだった。
「バカヤロウ!美紀泣いてたぞ!」
「……シンジが慰めればいいよ。僕、もうやだ。美紀は、何もわかってくれない」
「アキ、」
 小高い坂の上に建てられた施設の近くには、夕焼に染まる平たい家屋の並びが一望できるスポットがあった。自由な遠出は原則として禁じられていたから、美紀が寝ているときにこっそりシンジと二人で抜け出してはよく訪れる場所だ。本当は男友達と一緒にいたい年頃、なのに自分の後ろにはいつも小さな妹がくっ付いていた。だから喧嘩した後には決まって、自分の自由はこの存在に束縛されていると考えてしまう。好きなのに、守りたいのに、キライだ。
「あいつ、まだ小さいんだぞ?本気にしたらどうする?」
「本気だもん」
「……ほんと、ガキだなあ、お前」
 木製のベンチの上で膝を抱える僕の頭を、さっき美紀にしていたみたいに撫でるシンジの手。親友は自分よりも明るくて、器用で、運動も勉強もできるから友達も沢山いる。それなのに気がつけば彼の周りには自分か美紀しかいなくなっていて、ああ、美紀のように自分も彼を縛り付けてしまっているのかも知れないと、抱えた膝に額を押し付けた。
「オレはさあ、いいなあって思うよ。きょーだいとか居ないし、美紀もアキも、羨ましい」
「僕も?」
「そ、お前も。ほら、コレ」
 大きなポケットの中からごそごそと、シンジは小さな飴玉の袋を二つ手の中で転がした。真っ白な包装紙に赤いいちごのプリントが無数に施されている、美紀が大好きな飴だとすぐに分かった。先生はレモンといちごを同じ数だけくれるけれど、僕はレモンしか食べたことがない。美紀は、すっぱいから嫌いだ、と云うのだ。
「泣きながら、おにいちゃんにあげてって。美紀いい子にするからって」
「……美紀」
「美紀にはさあ、お前しかいないんだって。わかってんだろー?」
 ピンク色の三角形の飴玉は、舌の上で転がすとほんのりと甘く、もうずっと食べていない筈なのによく知っている味がした。これを食べているときの美紀がいつも傍にいるから、香りで覚えてしまったのだと気がつくと、今度は無性に妹の顔が見たくなってきた。まだ泣いているのか、また先生に迷惑をかけているのか。また、周りの子供たちに疎まれてはいないだろうか。
 守らなきゃ、
 僕が。
 僕の、妹だから。
「シンジ、ごめん。美紀あげれない」
 甘いものを食べているのに胸が切なくて、何だかほろ苦い。
 僕は抱えた膝を前へ蹴り出すように伸ばして、ひょいっと立ち上がった。振り返る先のシンジは、ベンチに座りながら飴を含ませた頬を膨らましてニタリと意地悪く笑った。
「ばーか。誰もいらねーって。美紀は妹じゃなくてお嫁さんにほしいし、オレ」
「なっ!お、お嫁さんッ!?」
 真っ白な肌が耳まで真っ赤に焼きあがる。夕日の所為ではない、恥ずかしいことがあったときの癖だった。赤面症なのか、顔に出易いとよくからかわれる。勿論シンジもその例外ではなく、むしろ彼が最もからかいを仕掛ける人物なのだが、朱色の顔でわたわたと手を振る僕を指差して屈託なく笑う。
「アキ、すっげー真っ赤!太陽みてぇ!」
「ばっ、バカ!お前が変なこと云うからだろっ、お、およめ、さんとか!」
「なんだよー。いいじゃん。美紀がオレと結婚したら、お前ともずっと一緒なんだぜ」
「そっ、……んな、それは、いい、なあ……」
 施設の先生くらい身長も伸びて、自分たちの手で、足で生きていけるようになったとき、やっぱり隣に居てほしいと願うのは美紀とシンジだけだった。大きくなった自分たちが、一つの家で暮らす。家族のように、いや、本物の家族となって。そんな将来が本当に来てくれたならどれだけいいだろうと、この時の僕はシンジを眩しい気持ちで見つめるばかりだった。
 シンジなら、きっと叶えてくれるって。無条件で、そう思えた。
「あ。けどアキはアキで結婚しなきゃな」
「僕は、いらないや」
「そうかあ?お前、実はせんせーのこと好きだろ?ああいうさあ、」
「いらない。僕は、美紀とシンジしかいらない」
 シンジの云うように僕は施設に居る先生のことが好きだった。好き、という言葉の持つ意味はよくわからなかったけれど、綺麗で、元気で、優しくて、みんなの憧れの先生だったから、僕も好きだった。シンジもなんじゃなかなって、思っていたんだけど。
「ふうん、そっか。オレも、アキと美紀だけでいいよ」
「ほんとう?」
 だから、静かな声が僕たちを肯定してくれたとき、ハッと顔を上げてまじまじとシンジを見つめてしまった。一緒に居てほしいと願っても、自分たちはいつかまた二人きりになるような気がしていたから、シンジが神様みたいに見えた。
「だってオレ、お前らがいなかったら一人じゃん」
 家族にしてよ。広々とうち開けた明朗な笑顔に、僕は何度も何度も首を縦に振った。急に自分たちの未来がきらきらと輝き出した。
 結局夕焼けが過ぎてから忍ぶように施設へ戻った僕たちを待っていたのは、先生の長いお説教と、美紀の短い恨み言だった。ごめんなさい、いい子にするからおにいちゃんでいて、しゃくりあげる合間に紡がれる懇願に、僕も泣いた。ごめん、美紀大好きって、小さな体を腕いっぱいに抱きしめて、泣いた。

 いつも、僕とシンジの後ろをちょこちょことついて回った大切な妹。
 シンジがお嫁さんにしてくれるって!と云ってからは益々、彼に懐いた妹。
 どんなに小さな家だって、どんなに貧しくたって構わない、三人一緒に暮らせる日が来ることを、心の底から願い、期待していたあの頃。

 果てしなく、遠い。

 *

 ふ、と遮るもののない澄んだ目覚めだった。数回の瞬きで見慣れた天井と蛍光灯を視界に認めるのと同時に、白い天井を這う細長い光の先を追う。光は途中で影と混ざり、壁に落ちる前に消えていた。夢の終わり、そんな風に思えた。
 いつもより少しだけ目覚めが良いことを抜かせば、何一つ変わらない朝なのだが、違和感は次いでやってきた。そして、その原因はすぐ隣に在ったことにも、すぐ、気がついた。
「おはようございます」
 一つの枕の上、頭が落ちないぎりぎりの端っこで顔を横向かせ、こちらをじっと見ていた少女と目があう。柔和な笑みは朝日に溶けて、終わったはずの夢が欠片だけ残していったかのようだ。
「あ、」
「先輩、寝顔も綺麗なんですね」
 口許を綻ばせるほどに目が優しく細められて、こびりついていた過去の記憶がさらさらと流れていく。代わりに、昨夜の出来事と共に目の前の少女が"今"の現実を形作った。
「……おはよう」
 微かな名残は探せばいくらでも漂っている、まろやかな胸元に染み付いた仄かな痣はその一つ、夢の中の"アキ"は知ることも無い、本当に「好きだ」という感情が成せる仕業。それは劣情とか、情火と名づけた方が良い醜いものだった。
「ちょっと、魘されてましたね」
 身を起こした少女がうち捨てられたティシャツを手繰り寄せて体を隠すまで、ほろりと顕わになった胸や、シャドウとの戦いの跡が色濃く残る肌が自分の目の前に晒された。夕べ、自分たちにとって初めての行為の最中、酷く服を脱ぐのを嫌がった理由も、こうして視線の当たるままにしてくれている。少女の内面に触れることを許されている証だ。
 思わず伸ばした片腕で腰を抱き、上体を起こした彼女のへこんだ腹へ顔を埋めた。
「せんぱい」
 まろい声が呼ぶ。記憶にあるどの呼び方とも違う。昨夜で変わった色が水に垂らした絵の具のように広がっている。くすぐったくて、けれど心なしか切なくて、呼びかけに応えるように抱く腕を強めた。
「痛いですよ、先輩」
 夢では、今の自分の腰丈も無い妹を抱き留めることさえ手一杯だった。こうして抱きしめる少女は妹とは全く異なる人間であり、あの頃の自分は考えもしなかった「将来の選択肢」そのものである。シンジと美紀だけでいいと云ったが、二人とももう居ない。残された俺は、果たして新しく腕に抱く人間を見つけても良かったのだろうか。
 ミシ、深雪を踏み込むくぐもった音が心臓を冷やす。肉の弾力を感じるほどに強く抱きしめていた手が弾かれたように浮き、俺は、ぎこちない動作で体を持ち上げた。
 許されるのか? 俺は。
 今年のクリスマスのみならず、来年、再来年とこの女性と共にありたいと誓ったばかりだというのに、最近では滅多に見ることもなかった夢を見せられてようやく、自分はとんだ裏切りを働いたのではないかと思ってしまった。彼女に贈り物をしようとおもちゃ屋に入った際は、美紀は祝福してくれていた。けれど、それとこれは、違うのではないか?
 美紀は笑っていた。きっと許してくれる、そう思いたいだけ、だったら?
「……明彦さん?」
「、」
 喉が詰って名前が呼べない。不安げな表情で覗きこまれて、俺は、不恰好な笑みを口許に乗せた。大丈夫だと云ったつもりだったけれど、掠れた空気しか出てこなかった。
「悪い……、寝ぼけてた。すまん、学校行かなきゃな」
 クリスマス本番の今日も学校がある。まごついている時間は無いだろうと、片手で眉間から頬にかけて揉み解すと、ほんの少しだが緊張の糸が弛みを作った。
 触れ合う肌の温もりが恋しくて服も着ずに眠ったのが仇となったか、冷え込んだ朝の空気があっという間に上半身を包み込んで体温を根こそぎ奪っていく。脳裏にこびり付く責苦から、少女の顔をまともに見られなかった俺は寒い寒い、と嘯きさっさとベッドを抜け出そうとした。
 それを、彼女の強い手に阻まれ、バランスを崩した拍子に大きく反転する視界、頭をベッドマットに強かに打ちつけて目を白黒させていると、真上から影を背負って見下ろす双眸。赤い目は、俺を責めていた。
「何も云いたくないなら、聞かない。けど、そんな顔の先輩、離せません」
 時に少女は抗うことをよしとしない瞳で圧倒してくる。それが疎ましく感じられないのは、彼女がそういった一方的とも取れる偏りを押し付けてくるのは事自分に関してだからと分かっているからだ。他の人間には、たとえそれがどれ程近しい親友たちであっても、彼女は中々自分の心根を相手に強制しない。
 離せない、なんて、甘ったるい鎖、俺にだけだよな。
 胸元が疼き、俺はくしゃりと目元を歪ませて不器用な笑顔を作ると、ゆとりのある袖口から生える細腕を捉えてそっと、少女を腕の中に閉じ込めた。
「俺は、お前に重たい話ばかりしているよな」
 たまには楽しい話や愉快なことの一つでも云えたらいいのに、染み深しい二眼に見竦められると、はるか昔まで遡って全てを見透かされている気になる。結果として慮った数々の言葉は露と消え、甘えてもいいのか、話していいのか、受け入れてもらえるか、今まで散々葛藤を重ねてきた記憶ばかりが口を突いて出てくる。一体、どんな能力だってんだ。
「……」
 横目で捉えた置時計の時刻は遅刻に近づきつつあった。しかし、重ねた胸から伝わる鼓動の一脈に癒され、鼻先を埋めた髪から香る微かなフレグランスが、行くなと首に縄をかけているようで。ああ、動けない。
「私、」
 少しだけ低い、落ち着いた声が音を作る。
「明彦さんのこと、知るの……特権だと思っているんですけど……」
 語尾が掠れて、僅かに揺れる。特権、という格式ばった響きに俺は顔を上げて彼女の顔を覗いた。
「私、特別を貰ってるって。けど、それ、調子に乗ってる?」
 云っている意味が、よく分からなかった。
?」
「私は、今まで誰にも話せなかった自分のこと、全部明彦さんになら云える。……ううん、聞いて、ほしいんです。話す人見誤れば不幸自慢っぽいって、思われることもあって、ずっと一人で抱えこんできたけど。明彦さん、前に云ってくれたから」
 揺れる視線がそれでも真っ直ぐに覗いた俺を見返す。
「先輩は甘えだって云ったけど、甘えられるのって、心、許してるからだよねって、あの時嬉しかった。私も貴方になら云ってもいいのかなって、思えて……」
 コロン。螺子を巻いていない筈のオルゴールが、朝日を浴びて微かな音色を奏でた。
「……話しすぎたら、負担になると」
「重たいなんて思ったこと、ないです。一度だって、ない」
 何かで読んだことがある、引用だったろうか、それはこういう一節だった。『心に負った傷は体の傷と似ている。癒す為にありとあらゆる手を尽くしても必ず傷跡は残るのだ』傷の舐めあいとはよく云ったものだが、決して癒えることのない傷口ならば、晒して、傷跡さえも触れ合える人が欲しいと願うのも自然なことだ。
 俺は、彼女にそれを求めた。その細い手で俺の傷に触れ、形を確かめ、舐めてほしいと切望したんだ。彼女も、同じだったということだろうか。
 言葉が胸で詰まり、俺は再びきつく抱きしめた。昔あれほど自分のもとにも来て欲しいと強請ったサンタクロースも、美紀を喪い、シンジと疎遠になって以来必要ないと思ってきた。けれどこうして、今、腕の中に居る。居てくれている。俺のさまざまなことを許してくれる、奇跡が、ここにいる。
「――好きだ」
 ほろりと、言葉が零れ落ちた。
 背中に引っ付いた冷たい指先が手の平を使って撫でてくれる。
「今日帰ってきたら、話してもいいか?その……、昔のクリスマスのことなんだが」
 目蓋の裏側には、あの日坂上から見下ろした夕焼けが映っていた。
「……君に、聞いてほしい。面白い話じゃないが、大切な、思い出だ」
 美紀とシンジが結婚してくれたらどれだけ良いだろうと思っていた頃、幼馴染が「アキはアキで結婚しなきゃな」と云った瞬間地面に足が付かない覚束なさを感じた。まるで自分一人取り残されて、二人と一人になってしまうような不安。だから三人で生きたいと偽りや飾りのない全くの本心から請い求めたのだ。
 だけど彼らはもう記憶の中にしか居ない。やっぱり、結果として二人と一人になってしまったと自嘲するのも疲れていた。
「じゃあ、私も。いろいろ聞いてもらいますからね」
「ハハ、ああ。いつも俺のことばかりだからな、悪かった」
 今度の謝罪には、彼女は笑ってくれた。
 遅刻が刻一刻と迫る中、俺たちは重ねあうだけの口づけを交わした。そこから世界が変わっていくような気になった。

 美紀、シンジ、ごめん。三人で生きられなくて、ごめん。
 けれど、俺と一緒に二人のことも背負ってくれる女とめぐり合えたから。
 二人以上に、自分自身以上に、守り抜くことを誓う。今度は絶対に手放したりしない。

「明彦さん、好き」
 渇いた泉に落ちた言葉が、ひっそりと、けれど確かな輝きを持って奥深くに咲く。

 おにいちゃん、と美紀の声が聞こえた気がした。

 

本文引用:Francois de la RocheFoucauld(仏人作家)

P3はクリスマスイベントがあるから書かなきゃいけない気にさせられる。
とんだ不幸自慢カップル……傍目で聞いたらとんでもなく重たい話ばかりしてそう。