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拒まれる事を望んだ

 

 影時間が明けてどれくらいの時間が経っただろう。
 淀んだ空間はその始まりと比べて終わるときは妙に潔い。黒から灰へ、それから白へと薄まっていくよりも余程鮮やかに、世界は再び光を取り戻して凡庸な毎日を繰り返すフリをする。"終わりではない"ことを見せ付けられているのだろうか。見せ掛けの終わり、影時間は、また明日も訪れるから。
 ジィー、ジィー。
 数時間前と何一つ変わることなく残りの人生を謳歌する虫たちの声は、しかし熱帯夜の寝苦しさを煽り立てるだけだ。気温だけの話をするならば、影時間に季節は関係ない、真夏も真冬も一定の気候なため、住み心地は良いだろう。
 跳ね除けたタオルケットが足先にまとわり付くのも厭わしく、俺は鬱陶しげに絡まる布を蹴り飛ばして両手足を大の字に広げた。基本的に夏場は上半身に何も着用しないで眠るのだが、触れた胸元はうっすらと汗ばんでいて、効果はさほど無い。
(――あつい)
 みっつの単語を脳裏に浮かべれば、状況を濃く意識した分だけ背中にあたるシーツの温もりも嫌になってきて、少しでも冷たい面積を求めて手足を端っこに這わせる。ベッドマットと壁の間にのめり込みたい程だった。
 それでも体に悪いからエアコンは極力つけたくない。そのことでは以前、猛暑の昼下がりに自室へ戻ろうと順平の部屋を通りかかって驚いた経験がある。比喩なしに冷蔵庫と見紛うほどの冷気が扉下から漂うほど冷えているのに、部屋の主がその場に居なかったのだから怒って当然だ。
 やれ電気代の無駄、適切な温度設定ではない、部屋に居ないのにエアコンをつけておく必要がない、その他云々。あの時は暑さで気が立っていた分八つ当たりも混じっていたが、9割は順平に非があった。
 しかしその後で、「そうか伊織、そんなに暑いなら今すぐ冷やしてやろう」と美鶴が云い出したのは少し、同情もする。ブフーラを食らってもいないのに青ざめた順平は、以後エアコンの使用を徹底するようになった。結果的には良かったんだろうが。……ああ、それにしても暑いな。
 短い前髪に手を差し入れて一握り、置時計を見やってため息を零した。起床時刻まではまだまだありそうだが、いい加減我慢の限界だった。
 眠ることを諦めて、部屋の明かりをつける。元々すっかり物の姿が見える位慣れていたが(それがまた眠りを妨げる一因でもあった)、人工的な光はその比ではない。眩しさに目を眇めて、数度の瞬きで耐える。
 寮住まいになってからは女性も同じ建物に住んでいる手前、自室を出る際の身なりには気を配る。とはいえ、不潔を許容できる性格ではないし、順平のように下着一枚も同然の格好で風呂場を出られる程ズボラでもない。常識の範疇と心得ている。薄手のパーカーとハーフパンツを身につけ、着替えと洗面用具を持ってそろりと部屋を抜け出した。
 燈色の穏やかな電気に照らされた廊下は真夜中でも明るく、一階奥の扉から別棟の浴場を目指す。ひっそりと静かで、蝉の鳴き声だけがやけに大きい。
 自室のシャワーよりも湯船に浸かりたかった俺は、脱衣所の明かりをつけてさっさと、迷うことなく扉を開いた。

「えっ――」

 声を上げたのはどちらが先だったか。真っ暗だった脱衣所の明かりの下に現れたのは、満月のシャドウでも同性の順平でも、ましてや岳羽が苦手な幽霊の類でもなく、後輩の少女だった。
「〜〜ッ、すまん!」
 バン、大げさに押し付けた背中に、扉がジンジン震えているのが伝わってきた。建て付けが悪くなってきたから開閉は丁寧に行えと云われていたことを馬鹿に冷静な頭が思い出したが、それどころじゃないと片一方が叱咤する。正直、どっちでもいい、今のは何だ、嘘だろう?
 顔よりも先に視界に飛び込んできたショットが、たった一瞬のことだったのに目蓋の裏側にびっしりと染みつく。経験から洞察力は養われているほうだと自負しているものの、こんなときにまで発揮しなくていいではないか。
 白く鏡をけぶらせる湯気に覆われた一室、こちらに体を向けた彼女はまだ、穿き終えたばかりの下着に手をかけているところだった。黒地に薄いレースが施された華奢な、下着。髪から流れる水滴に濡れる腕や肩、そして――
(意外と、デカ……)
 って、違う。いや、違わないが違う、あああああやめだ、やめッ。生唾を飲んで思い出すには彼女は、非常にまずい関係にある。特別課外活動部として日ごろから共闘する、仲間だ。そこらへんの雑誌で色香を売りにポーズをつけているグラドルでも、DVDに出演している女優でもなく、背中を預けて戦う間柄だ。ラッキーと思うには問題が山のようにあって、男の性と先輩としての理性に脳幹がぶれそうだ。
 煩悩、という言葉が頭を駆け巡った。心を悩まして、身を悩ます魔性の存在。くそっ、どうして自分は男に産まれたんだ。
 彼女は驚きながらもすぐに胸を隠したが、時すでに、豊かな量感も淡い色づきも見てしまった後だった。ああ、もう、美鶴に知られたくはないが、理由を聞かずに処刑してくれ。頼むから。
「………真田、先輩。まだ、います?」
 ガツンッ、扉越しにかけられた声に反応した肘がドアノブにぶつかり、突き抜けるような痺れが全身を襲った。声にならない叫びを噛み殺し、震える声で返事をする。
「あ、――ぁあ、……すまない、部屋、戻ったほうがいいな」
「え。あ……いえ、けど、お風呂、入りに来たんですよね?」
 そう云って扉を開いた彼女は、肘を擦っている手を見やってから、やや遅れてそろりと視線を上げた。水気にうねる髪の束が肩に下ろされていて、普段とはかけ離れた姿に改めて、収まりかけていた鼓動がドクンとひとつ、大きな音を立てた。風呂上りにラウンジで涼む姿だって何度も見ているし、今更なはずなのにどうして。見下ろす視線を慌てて逸らして、どもりながら言葉を転がす。
「本当に、悪いと思ってる。その、覗く気は全く無くて、電気も点いていなかったし、誰もいないと……」
「あの、わかります、から。そんな謝らなくても、」
「しかし見た、ことに変わりは……ない、わけで……クソッ、言い訳がましい!」
 少女の優しさで冷静さを取り戻し、距離を取ってぐるりと振り返ると腰の位置まで深々と頭を下げた。こんな風に謝った経験、今まで一度だって無い。この必死さに比べたら、それまでの感謝や謝罪は口先だけだったような気がしてくる。
「美鶴のように処刑するでもいい、気が済むようにしてくれ!」
 責任を取る、という発想はいくらなんでも飛躍しすぎだと沸騰した頭でもわかったから、それ以外で双方納まりのつく決着はやはり、"処刑"しか思いつかなかった。これも美鶴の教育の賜物なのだろうかと思えば、多少は情けなくもある。
 直立不動を直角に下げたポーズで数秒間、二人の間に沈黙が訪れた。どのペルソナを使おうか考えているのだろうか、それともやはり誰かに云いつけるか。頭を下げているから彼女の様子は窺い知れない。ただ、スリッパを履いたつま先を視界に入れるばかりだ。
「……あの」
「決まったか?」
 死刑執行を待つ囚徒の心境。まだ平身の体で頭だけそちらを向けると、少女は困ったような、呆れているような顔で笑っていた。
「いいです、時間外に入っていたのは私もですし、プレートも下げてなかったし、えっと……」
 並べる言葉は一路の救いへ導いてくれた。順平ならば手の平返したように「そうだよな、互い様ってことで!」とか云うのかも知れないが、俺は、そんなに簡単に自分を許せない。
「電気、つけていませんでしたから。間違って当然です」
 私の方こそ、驚かせてごめんなさい。小さく呟き、ペコンと頭を下げて同じ目線で笑いかけてくる。最もな言い分だが、男に非があって当然だと思っていた俺は思わず、彼女がそれで話を切り上げたがっていると理解しながら更に蒸し返した。
「お前、平気なのか。その、」
「平気じゃないです」
 云い淀む声に被さる圧倒的な響きは、やはり笑顔のまま発せられた。
「けど、誇れるようなもんじゃないですから。美鶴さんくらいだったら憤怒してたかもですが」
「いや、―――いや……」
 続く言葉が見つからない。「そんなことない」とか「綺麗だった」、もしくは「眼福だった」とは間違っても云えやしない。結局俺は尻切れた語尾を再び繋げることもなく、すっかり冷えた肝を暖めるために彼女と入れ替わり脱衣所へ入った。



 温かいはずの湯はちっとも心地良くなく、汗を流した後なのにまとわりつく不快感。今は己の裸を見ることも嫌だった。
 バスタオルで雑に水気を拭って脱衣所を出る頃には蝉すらも鳴き止む時間帯を差しており、図らずも長湯をしていたことに気がつく。雑念と煩悩を払いのけることで手一杯、無駄な時間を過ごしてしまったようだ。
 そのままの足で厨房の冷蔵庫からアイソトニック飲料を取り、ふらりとラウンジを通りかかると、思いがけない声が呼んだ。
「随分長かったですね」
「――!?」
 ダイニングテーブルの椅子を蹴飛ばしかけ、丸く見開いた目を声の方向へ向ける。三人掛けのソファに膝を抱えて座るがひらひらと手を振っていた。
「な、何をしてるんだ。まだ戻ってなかったのか?」
「ボーッとしてたら時間過ぎちゃって」
 そういうわりには髪は乾かした後で、云うほどただ座っていただけとも思えない。
「先輩、座りません?」
 ポンポン、と自分の隣を叩く少女の顔には一切の他意が見受けられない。もとより笑顔で本音を包み隠す嫌いがあるから、もしかしたらその裏側では腸が煮えくり返っているのかも知れない。俺に拒否権は無く、指示されるがまま彼女の隣に腰を下ろした。
 襟足から水滴が首筋を通ってパーカーの背中に滑り落ちる。ひんやりした感触は猛暑にも気持ち良くはなく、居た堪れない心境を抱え、が口を開くのを待った。
「先輩、驚いたんじゃないかなって」
 そりゃ、驚いたさ。下は穿いていたけれどあんな面積の小さな下着、殆ど裸も同然。はっきり云って熱帯夜とは別な意味で眠りづらくなった。
「電気、つけない理由、あれなんですよね」
 ん?
「色んなこと思い出すから、自分でも見るのが嫌なんです。……なんて、バカでしょ?」
「……何の話だ?」
 裸云々の話ではなさそうで、検討もつかない流れに思わず首を捻った。
「先輩、見たんですよね?」
「そ、れは」
 どこまで、と云いかけて飲み込む。少女は胡乱げに眉を顰めて、小さな声で「早とちりかな」と呟いた。
「その。胸、の痣。見たんじゃないんですか?」
 トン、と自分の右胸を指先で突いた少女の目には明らかな動揺と後悔が浮かんでいた。視線を指先に、胸を見やって漸く、俺は彼女の意図を読み取って声を上げた。
「ああ……」
「やっぱり」
 見たんですね。とそこで僅かに寂しそうな、心細そうな子供の表情で頷く。
 けれど、それでも俺は合点がいかなかった。
「けど、それがどうしたんだ?タルタロスでついたんじゃないのか?」
 戦闘の後、もしくは最中に回復魔法で傷を癒すことはできても、まだ魔法そのものの能力が乏しかった頃は回復が遅れることも暫しあり、皆それなりに跡を残している。俺も、順平も、勿論美鶴や岳羽もだろう。今更傷の一つや二つで驚きやしない。
 そこで、思い出しては申し訳ないと思いつつも先ほど脱衣所で見た体を思い出した。右胸、そういえば咄嗟に彼女が隠したのもそちらが優先されていた。胸の下辺りから谷間に向かう、浅黒い、痣。確かにあったな。
 そこまで覚えている自分にも感心半分呆れ半分、やはりだから何だという気持ちが隠せずに黙り込んだ少女を見下ろした。
「女の子の体に傷を残す戦いに巻き込んでいることは、最近なんだが……たまに考えさせられる」
 名誉に思えとか、勲章にしろなんて云えたことじゃないから、残りは心の中で続けた。
 どうしてそんなに塞ぎこんでいる。その痣が何だというんだ。タルタロスじゃなかったら、いつどこで負った傷だ? 戦闘中でもなければ、あのような大きな痣はおかしいのかも知れないが、そんなことイチイチ気にしなくても、
「あの痣、十年前の事故で負ったんです」
 ……気に、しなくても。
 駆け巡る言葉はプツン、と途切れた。
「事故の記憶は、ありません。ドラマとかでよく見ますよね、負荷がかからないよう蓋をしているんだって、自分が云われるなんて思わなかった。けど、目が覚めたときに胸に痣が残っていて……、記憶は無くて。それだけ。親は、二人とも亡くなったのに。私だけ、痣。不平等とか、不公平とか、そんなことしか、考えられないんです。コレ」
 水着や、きわどい衣装のような防具を装備するときは隠れる位置にある。他の女子が赤面して嫌がるのに、彼女はいつも笑って、むしろ順平と同じノリで「似合うよーいいよいいよー」なんて茶化していたから、全然。露出することを厭わないとばかり、思っていた。
「そりゃ、タルタロスでの怪我に比べたら蚊に刺されたようなもんなんですけど。向こうは魔法でも使わなきゃこんな痣じゃ済まない位ですし。それでも、戦闘での傷も、残ってるけど。傷の大小じゃないんじゃないかって、"心の傷"ってやつなんですかね?」
 
 俺に何が云えただろう。

 ただでさえ口下手で、傷ついている人間を叱咤して前を向かせることしか知らない俺が、爛漫に輝く笑顔しか見せない少女の泣き顔を見て、何が云えるというのか。知っていたら、誰か、誰でもいい、教えてくれ。
「ごめん、なさい」
 ポロ、ぽろ。ポロ。粒になって落ちる涙が細い手の中に消えていく。
 触れれば、あまりの薄さに驚いた。
 言葉を知らない俺は、涙が彼女の体を蝕んでいるように見えて、自分の体温を与える方法しか思いつかなかった。
「―――ッ、」
 見なかったことにしよう。
 何もかも。
「せん、ぱ」
「ああ」
 痣も、涙も、縋る指先も、抱える薄さも儚さも。
 全部、今夜を無かったことに。
「いじ、わる」
 あれほど暑いと思っていた夜なのに、ちっとも暑くなくて。むしろ両腕に抱きしめた温もりが、ただただ愛しくて、俺は柔らかなくせっ毛に鼻先を埋めて、上下する背を柔らかく撫でた。
「どこがだ」
「醜いって、思われたほうが、よかったのに」
 蝉の鳴き声も聞こえない夜。物音一つない寮のラウンジは、それだけで昼間の姿とは異なる。今誰かに見られたら誤解を招くと分かりながらも、この存在を離す方法が見つけられない。
「思わない」
「……」
 ぎゅ、とパーカーの胸を掴む手に力が加わった。
「……思わない」
「ッ、先輩」
 被せられた呼びかけは叫びに近い。
「少し、だけ」
 涙声の中、ほのかに声が温かみを覚える。
「もう、少しだけ……こう、してても、いいですか?」
 押し付けられた額に、俺はそっと目蓋を閉じて抱きしめる感触に身を投じた。
「………いいよ」

 どうして拒むことができただろう。

いつも真田サンの過去ばかりだから、たまには女主を。
ちなみにこの二人、まだ恋愛感情はない設定です。
恋してないのに思わず抱きしめちゃうのとか好きですw