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その恋、完成間近

 

「……真田先輩、髪伸びました?」
 寮に届いていた自分宛の郵便物の中身を確認しながら、私は何気なくいつも通りの面子がいつも通り思い思いの時間を過ごしている姿を眺めていた。ローテーブルの上に放った封筒やハガキの隣にはマニキュアの小瓶が数本置かれていて、ちょっとキツいシンナーの匂いが漂っている。最初は文句を云っていた順平と真田先輩も慣れっこになってしまったようで、誰からも咎められることのなくなったゆかりは、無心で角を整えた爪にマニキュアを塗っている。元々弓道部の彼女は爪の長さこそ無いものの、タルタロスへ行っているとは思えないほどいつも綺麗にしている。女の子だなあ、と他人事のように羨んだ。
 先の私の言葉に反応したのは、真田先輩本人と順平、あと風花だった。
「そうかあ?」
 携帯ゲームを操作していた順平は、チラリと視線をくべた後で疑問符を投げかけた。忙しなく動く親指がカチャカチャとボタンを連打する。ノートパソコンから顔をあげた風花は、しかし特に何を云おうと思ったわけでもないのだろう、私を見て、真田さんを見、興味深げに瞬いて暫し黙る。云われた張本人はボクシンググラブの水分を拭っていた手でちょい、と前髪を引っ張った。
「……そうか?」
 順平と同じ言葉を零して、髪に触れたまま私を見つめる。元々が短いから少し伸びたくらいではさして気にも留めていないようだ。私も思ったことを口に出したまでで、他意は無い。当然だが、切りに行けと親のように云いたいわけでもなかった。
「耳に被ってるなーって。なんとなく」
「まあ……少し額にかかるな、とは思っていたが」
「俺なんて女の子が髪切っても中々気づけねーよ」
 つまり同性の髪の毛が伸びようと短くなろうと気がつかないと云いたいらしい順平は、からりと明るい笑い声をあげて携帯ゲーム機の電源を落とし、一人分のスペースを空けて座る真田先輩にまじまじと目線を走らせた。後輩の無遠慮な視線に居心地が悪くなった彼は、鬱陶しげに眉根を顰めてため息を吐く。
「風花も髪短いけど、維持大変じゃない?すぐ伸びちゃうでしょ?」
 トン、と確認し終えた郵便物をまとめて、話の中心を逸らす。寮内の女性の中で最も髪を短くしている風花はふわふわの襟足を指に絡めて「えっ、うーん」と曖昧な言葉を返した。
「伸ばせるように切ってもらおうと思っても、ついいつもと同じで、って云っちゃうの」
「あ。わかるー、それ」
 トップコートの刷毛がするするとゆかりの爪上を滑る。辿る後に光る艶が天井からの明かりを受けてきらり、と少女らしい輝きを放った。
「美容室でさあ、本見せてもらうじゃない?でも今の長さじゃどれもイマイチって思うと、メンドーになっちゃって結局マイナーチェンジしかしないんだよね」
「私はイメージチェンジするほど、勇気がないから」
「えー、風花は長いのも似合うと思うよ?」
 十指にトップコートを塗り終えたゆかりはそこで、私を向いて首を傾げた。
はそれより長かったこととかある?今も結構ありそうだけど……」
「私はアレ。自分でやるからある程度長さあった方切り易いんだよね。じゃなかったら、ぶきっちょだから切り過ぎちゃうんだ」
 云うと、男子の驚いた目と女子の納得げな顔がそれぞれ向けられた。女の子は美容室に行くもの、という固定概念があったらしい順平が心底感心した声で身を乗り出す。
ッチの意外な一面ですなあ。あ、ちなみにオレサマは美容室大好きだよ?」
「え。順平君美容室行くの?」
「ハア?無駄じゃない?っていうか、無駄」
「お前、その長さで……床屋で充分だろ」
 息ピッタリの総攻撃にたじろいだ順平は、思っても口に出さなかった私を唯一の味方だと思ったのか、こちらを振り返ってたどたどしい本音を漏らした。
「髪洗ってもらうの気持ちよくね?てかほら、オネエさんイッパイいるし?」
「あ〜ジュンペ、髪洗ってもらうとき前のめりになるのがーとか云うんでしょ?超ベタあ〜中学生じゃないんだからー」
 合点がいったとつい手を叩いて順平に笑顔を返すと、「いいじゃん別に!」とにやけた笑顔で同意を示される。順平の場合は髪というよりも頭を洗ってもらうという表現が正しい。
「順平くん……」
「サイテー」
「床屋に行け」
 しかし寮メンバーは私ほど順平の目的に理解力は示さないようで、それぞれ軽蔑しきった目を向けている。同性の真田先輩(彼の場合女性関係の話で盛り上がる時とはどういう話なのか気になるくらいだが)にまで一刀両断にされた順平は、可哀相なほど狼狽え、ようようトーンを落とすと涙を流すように呟いた。
「ッんだよ皆して……真田サンだってッチに髪切ってもらえば俺の気持ちが分かりますって」
「どうしてそうなる」
 ギョッと目を見開いた真田先輩はボクシンググラブの内側を拭く手を止めて、食い入るように後輩の顔を見つめる。一蹴のもとには流されず、むしろ驚嘆と動揺の入り混じった揺れる瞳を相手に溜飲が下がったらしい。順平はわざとらしい声色で云った。
「えー。床屋行く時間短縮に、経済的節約に、あとはー」
 指折り理由をあげ連ねる帽子の同級生の言葉を黙って聞いていたゆかりが、爪の乾きをチェックしながら何気なく、言葉を挟んだ。
の前髪、失敗してるの見たことないから腕前も信用に足りると思いますけど。ね、風花?」
「えっ?……あ、うん、そうだね。色んな無駄が省けるっていう面で、先輩には好条件が揃ってると思う、けど」
 当人たちを尻目に交わされる言葉は何故だろう、悪意はまったく感じないのだけど、明確な意図が潜んでいる気がする。隣に座るゆかりを覗き込めば、彼女はチラリとだけ視線を合わせてそ知らぬふり。これは、やっぱり、あれだ。
「……いや、しかし、の都合もあるだろう。第一俺の髪なんか」
 口ごもる真田先輩は普段の明敏な物言いが嘘のようにどもった喋り方だった。順平の隣、斜め向かいから真っ直ぐにコチラを伺う視線には、後輩たちの言葉にすっかり乗せられて私に髪を切ってもらう気満々の期待がちらついている。嫌じゃないけど、面倒ではある。けれど「俺の髪なんか」の「なんか」という響きが私の中の何処かに引っ掛かった。「なんか」じゃないです、と云いそうになって、半開きだった口を一度しっかり閉じる。
「まあ、云い出したの私だし……その代わり、失敗しても怒らないで下さいね」
「いいのか?」
 約束するよりも先に確認を取られて、その勢いのよさに圧倒された私は思わずソファに背をつけて首を縦に振った。瞬く視界に、「そうか、助かる」と綻んだ目映い笑顔が在る。隣の順平は当然ながら、アウト・オブ・眼中だ。
「……えっーと、じゃあ私ハサミ持ってきますから。先に浴室行ってて下さい」
「いや、俺もコレを乾燥させに行くから」
 それ以上この場所でじっとしていられなかった私は、まごついた動作で手紙の束をまとめ持つ。すると、ボクシンググラブを持った先輩が後からついてきた。向かい合って座っていたときよりもグッと近づいた距離に、言葉が喉元にしがみ付いて出てこない。「じゃあ途中まで」なんて、同じ寮内なのに不自然な誘いを云ってしまい、「なんだそれ」と心の中で一人ツッコミ。空しい。その言葉を受けた先輩の笑顔は、勿体無いけどこの際見なかったことにする。黙って笑っていたら二枚目過ぎて心臓に悪いんだ、この人。
 背後で、順平やるじゃん、だとか、急にふるからビックリしちゃったけどあれでよかったのかな、だとか、やっぱねーオレサマたちがキューピッドやんないとね、とか好き勝手云う声が聞こえた。
 今日のタルタロスは順平とゆかりを連れてモナド最深部まで行こう。
 ……ところで、順平の発言はどこからが罠だったんだろうなあ。

 *

 洗面用具のあれこれを収納したバスケットから目当てのハサミを持って浴室へ続くドアを開くと、真田先輩が脱衣所の手前の壁にもたれ掛かっていた。
「お待たせしました。んじゃ先輩、上脱いじゃって下さい」
「え」
 生憎とビニールケープの用意は無いから、膝にはタオルをかけるとしても上は脱いでもらった方がいいと思っただけなのだが、何がそんなに意外なのか真田先輩は形の良いアーモンド形の瞳をくるんと丸めた。
「変な意味ないですよ?服に髪が落ちるよりはマシかなって」
「あ、ああ。わかってる、急に云うから驚いただけだ」
 部屋に戻るついでに私服に着替えていた私とは異なり、真田先輩はまだ制服姿のままだった。脱ぐ様をジッと見ているのもおかしいと、彼がベストのボタンを外し始めたところでタオルが収納された棚を向いた。
「そうか、俺も着替えてくればよかったな」
 制服のパンツは限りなくホームカット向きではない。だがすでに上半身裸の先輩を部屋まで着替えに行かせるのも手間だと思い、私はまた事も無げに言葉を落とした。
「それじゃあパンイチでバスタオル巻いて下さい」
「…………まあ、いいか」
 もしかしたら、私があまりにも恥ずかしげもなく云うものだから呆れているのだろうか。変に意識したくなかったから、順平その他を扱うように対応したのが裏目に出てしまった。けれど私だって思春期真っ只中の花の高校二年生女子、下ネタは好きだけど――好きな人の裸を見てドキドキしないほどの不動心は持ち合わせていない。
 だから、ベルトのバックルを外す音にやらしさを感じて、つい、「先に行ってます」と必要なものを抱えて逃げてしまっても仕方がないことだと思う。
「お前はいつも自分で髪を切ってるのか?」
「いつも、じゃないですよ。全体の形はプロの人にやってもらわなきゃ崩れてきますから。けど揃えたり、突発的に前髪切りたくなったときはチョキチョキって」
「ハハ。ハサミ捌きも堂に入ってるな、大したもんだ」
 改築したホテルを学生寮としている分、浴室は非常に広く、鏡に向かいながら話す会話がよく響いた。二人いても圧迫感はまったく無い。おかげで浴室に二人きりというシチュエーションを深く気にかけなくて済んでいた。
 しかし、こちらに背を向けた先輩の上半身は、発達した筋肉に覆われていて、触れてみたくて仕方が無かった。普段トレーニングトレーニングと煩いだけのことはある、白いうなじの華奢な色が、余計に輝いているようだった。
 よどみなくハサミを動かしていく中で、私は感じたことをポロリと口に出した。
「先輩って髪柔らかいですね」
 うなじにかかる襟足を切り揃えながら云う。憚ることなく思うがまま髪に触れられる喜びがひたひたと胸を満たし、思わず緩んでしまう口許のまま云ったからだろうか、そこに意図しないものを感じ取った先輩がちょっとだけ不機嫌な声色で返事をした。
「髪質が柔らかいと禿げ易い、というのは本当なんだろうか」
「ううん、根拠なかったと思いますけど。ヤダ、気にしてたんですか?」
「そっ、……まあ、少し、な」
 簡易性の椅子の上で居心地悪そうに動く先輩の肩を抑えて前を向かせると、私は笑いながら「大丈夫ですよ」と前髪にハサミを入れた。
「量は多いし、なんだっけ、襟足とかがはり付く感じに生えてると危ないって聞いたことあるけど、先輩そんなことないし。後は――、」
 後は遺伝ですね、と云いかけ、単語の欠片が零れるより先に彼の生い立ちを思い出して不自然な間を作ってしまった。額を半分隠すくらいに伸びた前髪をおさえるピンを取り損ねて、カツン、タイルの上に落とした。
「どうした?」
「何でもないです。ちょっと腰が疲れたかなって」
「ああ、そうだよな、すまない」
 顔を覗き込むように髪を切っている私を、見上げた真田先輩が形の良い眉毛を寄せて謝る。なるべく鏡の中の目と視線を合わせないようにしていたのに、このときになって鳶色の瞳に捕まってしまった。そうすると途端に今までになく接近していることや、ニキビやソバカスとは無縁の白く滑らかな肌が目に入ってきて。目頭から目尻まで、みっしりと細かく生え揃った長い睫毛が、至近距離で数回瞬く。口が半開きになって、手が止まってしまうのが分かった。これ、見とれるって云わない?云うよね。
「それにしても」
 自分の顔に心を奪われていると露とも考えないのだろう先輩は、視線を鏡に直してポツンと呟いた。
「は、はい。なんですか?」
 改めて順平とゆかり、風花には後でたっぷりお礼をしようと心に誓っていた私は、慌てて応える。指先に触れる手触りの良い髪の毛が自らの手で切り落とされていく。勿体ないと思いながら抑えていたピンを抜き取ると、真田先輩が遅れて言葉を繋げた。
「何でかな、お前の手、凄く落ち着くな」

 カツンッ、

 二度ピンは手から滑り落ちて、タイルを転がった。
「へ、変なこと云わないで下さい」
「変だったか?」
「――あんまり、女の子にそういうこと云わない方、いいですよ」
 無意識か無自覚か分からない、けれど悪意や明確な好意が潜んでいるよりも厄介な言葉は、私の中にしっかり沁みていた。耳が覚えた。脳が刻んだ。今夜は夢にも見そうだと乙女な発想をする自分にも、いい加減驚かなくなった。好きなったと気が付いたのは何時だったか、この人を好きな自分を理解してからというもの、幾度となく「天然」な発言に悩まされてきた。
 真田先輩の好意がどういう類のものなのか分からないから、自惚れることも許されない。なんて、すごく罪作りな人じゃない?一体何様?
「そうか、気を悪くしたなら謝る。ただ本当に、心が安らぐというか、」
「だ、だからっ、もういいですって!分かりましたから!ありがとうございます!」
 これ以上云われたら手元が狂って先輩のもみあげを切り落としてしまうかも知れない。そんなことをしたら、「犯人探し」に乗り出すファンが大勢出てくることだろう。
「……すまない、。俺はどうにも、ダメだな」
「あの、怒ったとかじゃないんですよ、先輩」
 これだけ取り乱しながらも、私の手は的確に散髪を終えていた。はねている髪を手櫛で丁寧に梳く。指の間をするすると流れるしなやかな質感に、この時間がもう少し続けばいいという心残りの情が浸透しそうだ。
「ただ、妙な誤解を生んだら面倒なことになりますから」
 私のように。私の心のように。
「誤解、か」
「先輩、今みたいなこと人前で云っちゃダメですよ。特定の子褒めるなんて」
 忠告のつもりだった。だから、次いだ言葉に返事が思いつかなかった。
「俺は、さっきのようなこと、他のヤツに云ったことはない」
 それは。先輩。
「髪、ありがとう。大分サッパリしたよ」
 誤解。自惚れ。自意識過剰。
「お礼になるか分からんが、今度奢るからな」
 そう云って、彼はシャワーを浴びたいからと椅子やタオルを片付け始めた。半ば追い出されるように脱衣所を後にして、ハサミを握り締めたままぼんやり、こびり付いた声を反芻させる。

 今のは、云ったことがない、というただの事実か。
 お前以外に云うつもりはない、という裏が潜んでいたのか。
 どっち?
 ねえ、どっちですか、真田先輩。

 随分前に期待しないって決めたはずの心が、ラインダンスを踊りだしそうだった。

 

「おっ、ッチ〜お疲れ〜むふふ、ラブ・アクシデントあったっしょ?」
 ソファの背もたれに顎を乗せて、ダイニングテーブルに手をつく私を振り返る順平を見やった。まるで何かを確信していたかのような言葉に、首を傾げて先を促す。
 順平は帽子の鍔を後ろ向きに、ゆかりたちへ目配せして私に語った。

「先輩、絶対お前のこと好きだからさ、俺たちがキューピットしようかと、ね」

 彼らは、私のキューピッドをしたんじゃなかった。

 真田先輩の、キューピッドたちだった。

「ねえ、はどうなの?真田先輩のこと、ちょっとは良いなーって思ってたりするの?」
 ゆかりの声が遠かった。
 私はテーブルについた手をそのままに椅子に座って、とうとうダンスを踊りだして高鳴る鼓動を服の上からおさえる。どくん、どくん、初めてペルソナを召喚したときよりもずっと心拍は早く脈打っている。嫌なことから気分を払拭させるためのホームカットの趣味は、私に思わぬ幸福を運んだ。何が役立つか分からない、恋って、そんなもんなの?
「……あれ。やっべ、ッチ怒らしちったかな、俺ら」
 大丈夫、順平。君、生き延びたんだよ。私、今すっごく君に感謝してるんだから。
 今日のモナド行き、無しにしてあげるね。

「順平、ゆかり、風花、これからも、どうぞよろしくお願いします」

 キューピッドたちに、感謝を。

真田サンはあの髪型だから好きになりました。短髪が好きなんです。
Ptsの明彦(28)はやや伸びましたよね。だがそこもイイ。