thanx P3!!

日刊色恋新聞

 

 ポンッ、と板書する手元にノートの切れ端がぶつかって撥ねた。咄嗟に目を向けた教壇では、アフロ頭がトレードマークの宮原先生が「掛算の奇跡」について長い講釈(いや、あれはただの趣味語りだ)を論じているところで、生徒には目を向けていない。そっとノートの飛んできた方向を見ると、親指の上でシャープペンシルを回す順平と視線がかち合った。くい、と顎をしゃくって、中を読むことを促される。
「142857っていう数字はね、1から6までをかけても結果はバラバラなのだけど――」
 カッカッカッ。黒板を叩くチョークの小刻みなリズムを聞きながら、私は順平の汚い文字を目で追った。
「けどね、7だけは違うんだよ。142857×7は、999999になるんだ。綺麗だよねえ」

(真田サンとつきあってんの?)

 十月中旬の金曜日のことだった。順平やゆかりには話そうと思っていたが、交際宣言を友人へ漏らすタイミングの計り方が分からず有耶無耶になっていた。
 突然のことに戸惑いはしたものの隠すことではない。私は順平へ向けて首を縦に振って見せる。その途端、目尻の垂れた愛嬌のある瞳が驚いたように見開かれて、口パクで「いつ?」と短く問われた。
 唇をちょいっと突き出して少しだけ考えるポーズを取り、私は先ほどまで板書するのに使っていたペンを順平の字の下に走らせた。僅かに緊張が指先に走った気がする。ノートには小さめに「二週間前」と単語だけ書いて、宮原先生を見ながら切れ端を投げ返した。
 私の席は窓側の二列目にある。ほのかに頬が熱いのは、きっと外から入ってくる陽光の所為だろう。
「111111111×111111111って皆、掛けたことあるかな」
 膝の上で折り畳まれたノートを開いた順平は、オレンジ色の小さな文字に少しだけ目を細めて、チラッとこちらを伺ってくる。もう私はそっちを向いてはいなかったが、頬にぶつかる視線を感じた。順平、どう思ったかな。まだそんなもん?それとももうそんなに経ってるの?どうして云わなかったの?とか、考えているのかな。
 そうこう考えていたら、順平は前方の背中をちょいちょいとつつき、先ほど私が投げたノートをそのまま手渡してしまった。手前の席は、ゆかりだ。
 親指に挟んだペンをくるりと回して、ここから見える斜め前のゆかりがノートを開き、内容を読む姿を眺めていた。宮原先生は黒板に計十八個もの「1」を並べた後で、きらきらと光る目で生徒を振り返り、「答えは」とイコールで続ける。授業内容はすっかり消されて、残っているのは「1」だけ。なんとも、シュールな光景だが、宮原先生の授業では然して珍しいことではない。
 ゆかりは、開いたノートを手の中に納めたまま肩越しに私を振り返る。口許に手をあてて頬杖をついているから表情の半分も見えないけれど、彼女はこくこく、と納得したと云わんばかりに数度頷き、筆箱代わりの可愛いポーチの中にノートを丁寧に仕舞った。
「で、答えは、12345678987654321になるんだ!回文みたいでしょ、凄いよねえ、数学っていいよね」
 黒板にはずらずらと並べられた「1」と、ちょっとテンションが上がりそうになる数字の羅列が行儀良く収まっていた。
 右から左まで限りある幅をギリギリまで使って書かれた数字をうっとりと蕩けた眼差しで見つめた宮原先生が、「数学っていいよね」と云った途端に授業終了のチャイムが鳴るのだった。これも、いつものことだ。
 どうせなら今の小話をそのままテストに出してほしいところだが、優しい口調とは裏腹に宮原先生の試験問題は頗る難しい。数学を愛するが故の暴挙、と専らの噂である。きっと、自分の問題が難しいなんてチラッとも思ったことがないんだろうなあ。
 結局、黒板の内容が半分も移されていないノートと教科書を机に仕舞うのと、ゆかりと順平が仲良く「どっちから?!」と声を揃えて訊ねてくるのはほぼ同時であった。

 部活の無い木曜日。保健室で江戸川先生と二人、お茶を飲みながらトランプの絵札にまつわる話で盛り上がった。電波っぽい先生ではあるが、ペルソナ能力に目覚めてから出会えて一番良かったと思える先生でもある、彼の話は何かと為になることが多いのだ。しかし、特に女子生徒には保健委員がハズレクジ同然に思われていると委員会に入ってから知った。まあ、薄気味悪い人であることは確かだから仕方ないのかな。
 その日は保健室に訪れる生徒も少なく、雑用も殆ど無かったため「帰っていい」と早めに帰された。昇降口を出る際、帰路に着く無数の学生服を眺めながらふと、寄り道しないで帰ったほうがいいのだろうと、数学が終わった後の順平とゆかりを思い出して小さなため息を吐く。
 二人に話すことへの気恥ずかしさが小さな渦を作っていた。
「おかえりなさいです」
 ラウンジには順平とゆかり以外が揃っていた。部活のある真田先輩はまだ帰ってきていないようだが、他のメンバーはすでにくつろいでいる様子である。
 今夜はタルタロスへは行かないことを早々に伝えて二階の階段を上りきると、待ち構えていたと云わんばかりの表情で長椅子に腰掛けた順平とゆかりが振り返る。数学の後、適当に誤魔化して逃げたことを根に持っているらしい、二人共笑顔だけど不穏げな気配が背後に漂っている。だって、クラスで「真田先輩と付き合っている」なんて云えると思う?そんなすぐには無理でしょ。
ッチ〜待ってたぜ」
「ほら、さっさと鞄置いてきて。順平の部屋に集合ね、OK?」
 こういう時ばかり仲良く意気投合しちゃって、私に拒否権は存在しないようだ。ついでに弁護士を呼ぶ資格も無いらしく、誰も私を擁護してくれないのだとすぐに悟る。なんて大げさか。
「わかったー。そんなに惚気聞きたいの?二人共」
「うっわそれウゼぇ、けど気になるもんは仕方なくね?だって"あの"真田サンだぜ?」
 想像してみる、もしもゆかりたちのように彼のことをただの先輩、頼れる仲間としてのみ認識していたとしたら――トレーニングに熱心な、良い意味では向上心の塊の、プロテインと牛丼のイメージが整った貌容を凌駕して余りある、取り巻きの名前を一人も覚えていない偏屈者の男を射止めた女性。成る程、気になる、かも知れない。
 それにしても私は、努めて想像してみようと思わない限りはもう、皆と同じ立場で彼のことは考えられないんだな。
 ああ、好きなんだ。彼のことが、真田明彦のことが。
ッチ。今、真田サンのこと考えてるっしょ」
「バじゅんぺ。鞄置いてくるからゆかりに変なことしないでね」
「ちょっ、するワケなくね?!」
「ハァー? どういう意味、それ。バじゅんぺのくせにムカつく」
「えーっ、もうどう云っても俺怒られるんじゃねぇの!あとバじゅんぺってヒデェ!」
「はぁ、疲れる。、せっかくだから制服着替えて来よう?」 
 ゆかりと三階へ向かう間際、一階からのぼってきた風花と一緒になった。お菓子がつまったコンビニエンスストアの袋を自室へ運び入れる順平を横目に、賑やかな二階の様子に驚いている彼女にも部屋に集まるよう声をかける。私と真田先輩の話が聞きたい、なんて口実でしかないだろう。何か楽しくなりそうな予感がする中、私は手早く着替えを済ませて二階へと戻った。

 前言を撤回する、彼らは本気だった。
「えっ、ちゃん、真田先輩と付き合ってるの?」
「あれ?風花気がつかなかった?結構いい雰囲気だったじゃん、二人」
「お似合いだなあって思ってたけど、その、恋人同士になったことは、全然……」
「一番最初に気がついたのは俺なんだけどねぇ〜」
 以前の、監視カメラが起こした誤作動により録画されてしまった部屋と比べると、随分片付いた印象の順平の部屋。あのとき、勘違いした美鶴さんによって黒沢巡査まで呼ばれてしまったことが堪えたのか、果たして順平はそんなに殊勝な奴だったろうか、ちょっとした謎だ。
 テレビ前のローテーブルを机の手前まで引き出して、持ち込んだクッションに風花が、座椅子にゆかり、ベッドに私と順平が腰掛けているから狭い一室には結構な人口密度だった。まあ、可愛い女の子ばかりの中に男一人だから、順平的にはオールオッケーなのかも知れない。それが証拠に、さっきからずっと笑顔なんだ、隣の男は。その分かり易さが彼の良い所なんだけど、露骨すぎるとゆかりに怒られるだろう。
 私はUFOキャッチャーの景品らしいぬいぐるみを抱えながら、三人の会話を傍観者の立場で聞いていた。不思議な感じだ、どうして皆そんなに盛り上がれるんだろう。
(順平がゆかりと、風花が荒垣先輩と付き合ったら、こんな風に盛り上がる、か。当事者だから交われないんだろうなあ)
 そしてこのとき、想像の中ですら「真田先輩と美鶴さんが付き合ったら」という仮説を考えなかった自分は、すっかり彼のカノジョの座に居座っているらしい。なんとも、初々しいこと。自らのことであるのに、思わず苦笑を散らしてしまった。
 手持ち無沙汰に、十月末日にも肌寒い格好で笑顔を振りまいている女性のポスターを眺めていた。意外にも硬質なロックを聴いてるんだ、と無造作に散らばるCDケースを横目に、ローテーブルにひろげられたお菓子へ手を伸ばす。
 うんっ、と力を込めて袋を破こうと奮闘する傍ら、順平が云った。
「俺が気がついたのも偶然なんだけどサ。ッチ、夕べ真田サンの部屋の前でちゅーしてたっしょ? おやすみのちゅー」
 バリッ。思わず力を入れすぎて中身が膝上に飛び散る。私は、震える手を抑えられないまま目を丸めた。ゆかりも風花も、同じような顔で私を見ている。
「咄嗟に隠れちゃったもんね、あーれは中々、衝撃的デシタヨ?」
「あっ、悪趣味」
「違うだろ!気をつけた方いいぜ。桐条先輩にバレたら真田サン、処刑もんだろ」
 不恰好に開いた袋をテーブルに置き、私は膝の上から直接お菓子を食べる。正直、ぐうの音も出なかった。部活動内での恋愛は禁じられていないし、むしろ真田先輩が一端の男子生徒らしい変化を見せている分美鶴さんも祝福はしてくれそうな気がする。けれど、寮内であからさまな所を目撃したときの彼女がどういう反応に出るかは全く検討もつかない。「明彦!」と大きな雷が落ちることは確かで、その瞬間真田サンの株が一気に落ちそうでもある。ううん、空恐ろしい。
「はあ、それにしても彼氏の部屋デートの後でおやすみのキスって……想像以上だわ」
 想像以上にバカップルだと云いたいのだろうゆかりは、リスのようにポッキーを食べている。風花は「あの真田さんが……」と、こちらも結構なショックを受けていた。うん、付き合い始めなんて誰でも似たようなものじゃないかな。例えそれが"あの"真田先輩だろうと、ね。
「そいや、結局どっちから告ったん?」
「真田さん……で、いいのかな、あの場合」
「何それ。そこってあやふやにならなくない?フツー」
「返事したのは私だし、真田さんでいいと思うんだけどね。まあ、詳しいとこは黙秘で」
 マスカットフレーバーの紅茶をストローで啜りながら、他にも何か云いたげな面々を見渡して云い切った。それよりも、二年生だけでこういった話をする機会は今まで無かった分、ずっと気になっていたことを訊いてしまおうと、私は風花を見る。
「ね、風花。間違ってたらごめんね?」
 前口上に姿勢を正す風花に微笑み、紅茶のパック(これはきっとゆかりが選んだんだろうなあ)を手の中で弄びながら訊いた。
「私、風花は荒垣さんのことが、好きなんじゃないかなあって、ずっと思ってたんだ」
 言葉に出すと不安さが増した。違うかな、と視線で問うと、彼女は驚いたように目を見開いているが、瞳の中に浮かぶ色は戸惑いの他僅かだが照れも滲んでいるようだった。
「どうして、そう思ったの?」
 ゆかりと順平は事の成り行きを見守っている、双方意外そうに私たちを交互に見つめるが黙っていた。風花はふうわりと頬に手をあてて、目を逸らした。
「距離、かなあ。順平や真田先輩よりも、何っていうか……近い、っていうか。男の人と接する雰囲気だなあって、思ったの」
 そこで言葉を切って風花を見ると、彼女はふるりと首を振って「違わない」と細い声をテーブルに落とした。
「好きっていうのは、わからないだけど」気になるとは、思っていた。風花の言葉の後で、ゆかりが口を開く。
「けど距離が近かったのはもじゃない。一緒に居ること多かったよね?」
 少し不安そうな眼差しを湛えた風花がゆかりに同意を示す。順平はすっかり聞き手に回っているようである、男子は入り込めない空気だが、彼の前で風花の話をしてもよかったのかと今更考えながら言葉を選ぶ。
「距離は、近かったかも知れないけど、違う。お兄ちゃんみたいな、カンジ」
 私は女子も男子も隔たりなく距離が近いと自分でも思っていた。その中でも課外活動部の先輩たちは、お兄ちゃんやお姉ちゃんが出来たみたいで特に親近感を抱いていたのだ。美鶴先輩は頼れるお姉ちゃん。たまに、お父さんみたいに私たちの心配をしてくれる。荒垣先輩はお兄ちゃんのようだった、ぶっきらぼうで鬱陶しがるのに、根は面倒見の良い気安さを持っていた。
 それぞれに感じていた印象を伝えると、ようやく順平が呟いた。
「真田サンとどう違うよ。荒垣サンと大差なくね?」
 心底不思議そうでもある。男子には分かりづらいのだろうか、私は少しだけ考え、端的に述べた。
「キスしたいなーエッチしたいなーって思うか思わないか?みたいな?」
「ちょッ!」
 思わず声を荒げた(風花は言葉すら失っている)ゆかりだったが、私の悪戯な笑い声にガックリとうな垂れた。真面目に応えて、と釘を刺される。これ以上は本当に惚気話になるのだけど、過ぎった考えを押し込めて、先ほどは黙秘に留めた話をする。
「真田先輩ね、"俺のものになってくれ"って云ったんだ。告るとき」
「わっ」
「云いそうだ。アノ人は云う」
「無理。そういう男、本気無理」
 ゆかりは良くも悪くも正直者だ、私だって相手が真田先輩じゃなかったら即答できたか怪しい告白の言葉である。けれど、と思いながら続ける。
「私も言い方は気になったんだけど、それが、嬉しかったりもしたんだ」
 ベッドの上に胡座をかいて、コットンパンツの裾を引っ張った。足首が涼しい、春に訪れた寮での生活も秋を越すまでになったことを意識した。
「一人で生きてきたーなんて、私が知らないだけで沢山の大人が関わってきたんだろうから思ったこともないけど、好きな親戚の家に居てもやっぱり、家族とは違うなあってずっと、思ってたからさあ」
 聞きようによっては重たい話になるかも知れない。流し見た三人は、しかし真面目な顔で耳を傾けてくれていた。
 そういえば私は、彼らの心底に突っ込んだプライベイトな話を聞くばかりで、私自身のことは殆ど何も喋っていなかったんだ。そうか、それは、不公平だな。
 少しだけ唇を閉ざして、積極的には語ってこなかったことを容易く曝け出せる関係に甘えようと思った。口許を緩めて、僅かに笑んで続ける。
「両親を喪ってから引き取ってくれた親戚はさ、私のことを高校に通わせてくれて、大学費も出してくれるって云ってるから思慮分別のないこと、本当は云っちゃいけないんだろうけど。それでもずっと遠慮はしてたと思う。甘えきれないなあって、そういう意味じゃ一人を感じてたんだと思うんだよね、贅沢かもだけど」
 両親を事故で喪った折、私を引き取ってくれたのはイトコの家族だった。幼い時分より可愛がってくれて、年の近いイトコとも仲が良かったから、本当の子供のように接してくれていた。
「月高に転入決めたときも、離れるのは寂しかったけどやっぱり、"家族同然"は本当の家族じゃないってどこか、冷めた考え持ってたからなんだろね。おばさんたちは、親のことをゆっくり考える良い機会だねって送り出してくれたのにさ、なあんか、裏切ってる気分」
……」
 呟いたのはゆかりだった。
「ん、なんか脱線しちゃったね。んー、だからさあ、強引な言葉とか、真っ直ぐな気持ちとか? 私だけに向けられるものっていうのに凄く、飢えてたんだあ。って、誰でもそうなのかも知れないけど」
 あとは、彼は凄く私と似ているからだ。親が居ない、孤児院で育った、そういう境遇だけであるなら荒垣先輩にも親近感を覚える筈だが、非力な子供にはどうすることもできなかった事故により家族を喪った苦しみを抱えている真田先輩に私は、惹かれたのだと思う。彼が幼き日々より背負い続けている罪過は本来ならば不必要なものであり、"真田"の家で愛されることに慣れるべきだった、力ではなく安息を受け入れる強さを持つべきだったのだ。
 そうと思いながらも、私は彼の不幸を愛した。狷介孤高に拳を磨き続けた彼を、固く守られた意志と高く保たれた品格を、それらを形作った過去の精神的外傷を。
 私たちはお互いに、過去の自分を相手に重ね合わせている。同じ境遇の者同士にしか分かち合えない傷を舐めあうことで、私は"わたし"を、真田さんは"明彦"を、弱かった自分たちを相手を愛することで救いたいのだ。
(たぶん、そういうこと)
 押し隠した薄暗い感情を嘲笑という形にする。流石にそのように考えていることは親友たちといえど気軽には話せない。大体、高校生同士の付き合いにしては覆う感情が暗い気さえする。
「やだ。ナニこの空気」
「……って、ッチが作ったんだろが! 何なの今の話、重過ぎる!」
 ドン引きした、と私が云えば、隣に座っている順平が手の甲で肩を叩く仕草を返してくれた。ゆかりと風花は笑おうと思って失敗した表情を浮かべていた。もしかしなくても、甘酸っぱい恋愛トークがお望みだっただろうか。タルタロスで庇ってもらったとき、七夕マッチにおけるラブホテルでのアクシデント、二人きりでまわった夏祭りなど、女の子らしい恋の話をしたほうが喜んだだろうか。
 殆ど手がつけられていないお菓子を一欠片、口の中に放り込むと、噛み締めたスナック菓子から塩気のききすぎた味がひろがった。
「なあんか、」
 順平にお菓子を勧められている風花を眺めていた私は、ゆかりの声に顔を上げた。頬に落ちる髪を耳にかけて、ゆかりはちょんと唇を尖らせて云う。
「真田先輩に勝てないんだなーって思うと、なんか悔しい」
「えー?」
「女友達よりも、彼氏を頼るんだろうなあってね」
 自意識過剰でなければ私は大層彼女に気を許してもらっている。他人との距離に関しては神経質な嫌いのあったゆかりだ、初めての"親友"を男に取られた悔しさだろうか、どこまで本気の言葉か分からないが、私は苦笑を散らして云う。
「"友達"にしか話せないことだってあるけど、そうだね。それは、仕方ないと思うな」
「うー。わかってるけど。私も多分、男できたらべったりになると思うから」
「ゆかりに男かあ。それはそれで妬けるなあ」
 何云ってるの、ばか。柔らかい笑顔が私を窘める。それまで黙っていた順平が、そこで急に快活さを増した声で問うた。
「つまり、ッチのさびしーってのや、愛されたーいってのを、真田サンは叶えてくれるんだ?」
「……寂しいとか愛されたいってのは、すっごく認めたくないけど。有体に云っちゃえば。遠慮しなくていいっていうか、ああいう人だから、多少のことじゃ見限らないんじゃないかなって信じてなきゃ、付き合わないよ」
「ふんふんふー、なるほどなるほど。ですってよ〜真田サン。聞きましたあ?」
「え」
 紅茶のパックに視線を落としていた私は、順平の言葉で慌てて顔を持ち上げた。ベッドの壁際まで後ずさった順平の身体の影から、赤いベストが立ち尽くしているのを見つける。数センチしか開かれていない扉の間、すっかり廊下を向いている彼の肩が、僅かに震えている。
「ばっ……ちょ、いつから」
「ゆかりちゃんと話してるときだけど。真田先輩、ちゃんとノックしてたよ?」
 風花らしくない、からかい混じりの笑い声。悪口を云っていたわけではないのに、顔を合わせ辛い。くしゃくしゃの乱れた掛け布団を抱えて笑い転げている順平の太腿を平手で打ち、こういう時は使える、リーダーの立場で「どうしました?」とその来訪を訊ねた。
「いや、その……部屋の前を通ったら、お前の声が聞こえたから」
「キャアーー、さっなだサンってばッチ大好きなんですねーッ!俺嬉しいッス!」
「どうして順平が嬉しいのよ」
 呆れたように云うゆかりだが、毒吐くには優しげだ。
「うっへー、だって、男の部屋からカノジョの声が聞こえてハラハラしたんじゃないんですかあ?」
「そ、そういうわけじゃない」
 私は順平相手にうろたえている真田先輩を見上げて、他にも女子が二人もいることを確認した後も扉の前から退く様子を見せない、かといって部屋に入ってくるわけでもない彼を伺った。片手にボクシンググラブを入れている袋を提げているから、今帰ってきたところなのだろう。
 立ち尽くしている姿が可愛くて、私はもう一度順平を叩くと携帯をポケットに、部屋を出た。
「アッハー、お二人さんごゆっくり!」
「うっさいバじゅんぺっ!ムドオン!」
 笑い声に背中を押されるように、私は真田先輩に並んだ。後ろ手にドアを閉めて、賑やかな声が戸を叩く程度まで静かになると、人心地ついた私とは反対の戸惑った声が云う。
「いいのか? 盛り上がっていたんだろう?」
「あのまま真田先輩見送るだけとか、できないですよ」
 邪魔したな、と謝りそうな気配を漂わせた彼の腕を取った。私は彼に気が付かれないようにそっと、薄く開かれた扉から覗いていた顔を一睨み、真田先輩と共に廊下を後にした。

「お前から、」
 いつ来ても整頓されている真田先輩の部屋。そのような感想を抱けるほど、既にこの部屋に何度も来ているのだと自覚する。クローゼットの傍らで着替えを終えた先輩が振り返るが、彼は私のことは見ないで続けた。
「……お前が、ああ云うの、初めて聞いた気がする」
「ああ?」
「俺と付き合ってる理由、云ってただろ」
 誘導尋問みたいなものだったが、この二週間彼への気持ちを明言することを避けてきた私の言葉は、彼の耳に残るに充分な効果があったらしい。いっそ聞き流してくれたらいいのに、律儀に掘り返す真田先輩の顔には複雑そうな表情が浮かんでいた。
「あのとき、すぐに返事を貰おうと思ったわけじゃなかったんだ」
 真田先輩の体重を受けてベッドが軋む。
「それ所か、即答してくれただろ? それは嬉しかったけれど、聞いてみたかったんだ、どう想っていたのか」
 それを強要するつもりはなかったのだろう、半ばアクシデントのような吐露ではあったが、嬉しかったと顔に出されれば勿論、嫌な気などするはずもない。むしろ、友人相手には云えても恋人本人に向かって云うことのできない自分を恥じ入りたいくらいだ。
 ベッドの上に置かれた手が少しだけ前に出て、上にある真田先輩の顔がゆるり、傾けられた。ヒクリと反応する目尻、瞑った目蓋が震えて、思わず詰めた呼吸の先、閉じられた唇の上に押し付けられるぬくもり。
 顎を引いて離れた顔は柔和な笑みを湛えていて、私が思い込んでいるよりは真田先輩も、恋人の言葉が必要な人間なのだと今更のように実感した。彼は、彼なら、声に出さなくても「傍にいることが証明」と思ってくれるんじゃないかと好意に寄りかかって胡座をかいていたのか。
「明彦先輩は、」
 寄せた額が薄手のカットソーを纏った肩に埋もれる。涼やかな洗剤の香りを吸い込み、体重を預けきっても揺らぐことのない逞しさに指を這わせて、服の上からでも分かる硬さに気が抜ける。
「数字の七みたいに、私の中でぴったりと意味のある形に納まるんです」
 昼間、数学の授業中に宮原先生が云っていた「142857×7=999999」の話を思い出した。他に、どのような数字をかけてもバラバラの答えを導き出す数列は、真田先輩以外の人間ではまとまりなんて見いだせない私の心のようだ。
「七?」
「んー、あとで説明します」

 今は

「明、」
 せなに回した手できつく抱き締めて、どれだけ力を入れてもきっと痛いなんて思わない強い身体に縋りつく。まだ付き合って二週間、仲間だった時期が長いから恋人扱いすることに戸惑いが残っていたことは確かだ。好きだし、甘えたいと思うのだけど「先輩」に接することに慣れた自身は中々踏ん切りをつけてくれない。
 恥ずかしい、という感情が邪魔になるときもある。なんのための勇気だ。
「……
 "彦"の響きは二人の身体に挟まれて溶けていく。蕩けた声が呼び、彼はもうとっくに、私を「恋人」として呼ぶことを良しと思っていたのに。私は。情勢の変化に応じてすぐに切り替えられる変わり身の早さ、それがこの短くも長い十七年で培った処世術だと信じてきた。けれど実際は、変化にすぐさま応じることのできない不器用な己を痛感するばかりで。
 薄く開いた視界いっぱいに真田明彦という存在を形成する身体があって、ぬくもりが、吐息が、眼差しが、そこにはあるのだ。見た目よりもしなやかな髪、意志の強そうな眉の下に薄いほくろがあったり、知らなかったことを次々と発見する。

 思っていた以上に、大きかった身体、とか。

 ずっとずっと近くで生活して、戦って、学校で彼について騒いでいる女子生徒以上に知っていると思っていた真田先輩は、私が考えていた以上に「男の人」だった。
 恥ずかしかった。特別課外活動部内でくっついたことを、親友である順平やゆかり、風花にも云えなかったことが。仲間、先輩という認識しか持たない彼らに、「真田先輩」に恋をしたと伝えることを躊躇したことが、恥ずかしい。
 私は「真田先輩」ではなく、「真田明彦」に恋をしたというのに。
「明彦、さん」
「……ん」
 呼びかけると、しっかりと抱き返してくれた。誰かに、無条件で受け入れてもらいたかった。焦がれていた、もう何年間も。「」をみつけてほしかった。
 見つけてくれた人。
 好きだと云って、私が存在することを認め、許してくれた人。
 彼について考えるきっかけができれば、あっという間に「好きだ」という気持ちが溢れてくる。なんって簡単な、けれど複雑な心。
 今度から順平たちは益々からかいの言葉を投げてくるだろうが、もう、あまり恥ずかしいとは思わない。

 真田先輩は私にとって、恥ずかしい存在などではない。
 胸を張って、自信を持って、彼らが呆れるほど「好きだもん」とのたまってやれるほど、

「好き」

 そう 貴方だけ。

P3主人公感謝祭に寄稿させて戴きました。