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男女交際は荒れ模様

 

 引っ張られた腕が痛い。閉ざされた扉が立てた音に体が縮み上がる。押し付けられた背中、腰付近にドアノブがぶつかって悲鳴をかみ殺した。ドク、ドクと腰にまとわり付く鈍痛で血の巡りが不規則になる。引っ張られた腕も、ぶつけた腰も、イタイ。怖い。けど一番怖かったのは、見たことのない色に染まった彼氏の目だった。
「――せん、」
 ぱい。二人の口の中で砕けて拗れた音が甘く滲む。掴まれた肩、大きな手の平にすっぽりと押さえ込まれる肩。スカートの裾が乱れることもお構いなしに男勝りに薙刀を振り回す私の、とても女らしいとはいえない私の、肩。それが、この時はひどく女性的に感じるのだ。まさぐるように肩から背と腰(ああ、そこはまだ痛いよ)に回ってくる腕。男の人の腕。いつもなら心が休まる温もりを与えてくれるのに、今は何故だかすごく怖かった。
 夕さりに沈む室内の輪郭が彼の肩越しに見えた。広くて硬い筋肉に覆われた身体に指をひっかけることは憚れて、うつろう手はニットベストの胸を引っ張る。カチン、と爪がボタンにぶつかった。
「、……ん、ぅ」
 白紙の上に垂らした墨汁が不恰好な染みとなりじわりじわり、辺りを侵食していく。彼から放たれる不穏な気。シャドウが纏う瘴気にも似た荊棘な気配。近づきたくない、近づいちゃいけない、人間が本来持ち得る回避本能が働く。けれど、逃げられない腕の中。合わせられた唇の間、零れた吐息が不釣合いなほど甘ったるく蕩けた。

 ゾクリ――ドクリと臍の下にとぐろを巻いていた蛇が暴れ出す。それは慣習になってしまった衝動。情動。この人に教えられ、この人にしか感じたことがない私の本質を揺り動かす刺激。"これ"に慣れるのだって、随分と時間と経験が必要だった。
 彼は私に新しいことをたくさん運んでくる。同様に、私自身が彼にとっての幾つもの初めてを作っていることも知っている。
 じゃあ、
 これは?
 タルタロスの内部でシャドウと戦っているときに酷似しているが、殺気とは異なる感情が植わっている、この気配は一体なんだというのか。殺伐の気ではない、戦意とも違う。しかし、はっきりと"怖い"と感じる。
「ふ、」
 生ぬるい息に耐え切れず、私は酸素を求めて真田先輩の肩口へ顔を背けた。最近、また少しだけ背が伸びたと云っていた。ベストに額を擦り付けて大きく息を吸い込むと、これまでの行為であがった体温が伝わってくる。荒い呼吸を整える間に、彼の手は大胆さを増して、制服の上から私の身体を確かめ始める。絶え間なくこみ上げる劣情を腹に抱えて、私は思考が流されていくのを感じる。
 低く囁くように名を呼ばれ、好きだと吹き込まれ、昂った熱を押し付けられれば、畏怖の念はあっさりと溶けていく。
 ジャケットのジッパーを下ろされる音すら不明瞭で、脳内が白濁していく隙間に「ああ、今日はタルタロスに行くつもりだったんだけど、大丈夫かな」と余裕ともとれる余所事を考えた。基本的には非常に勘の鋭い真田先輩は、私の中にポロンと落ちたその隙に気が付いたらしい。きゅっと眉を寄せて、私を睨む。水気に滲んだ鳶色の双眼に翳が差していた。
 そうして漸く、私は知った。真田先輩が私に対して、何か心晴れないものを抱えているのだということに。そう、ようやく気が付いたのだ。
「明……」
 美形が凄むと怖い、順平がそんなことを云っていたか、呼ぼうと思った名前は咽喉でグッと詰まり、大きな体と扉に挟まれた状況を意識せざるを得ない。そうか、怖いと思った理由は彼の怒りを肌で感じていたからか。
「何、考えてるんだ」
「なにって」
 真田のことしか考えていない。この部屋に入る前から、昇降口で一緒になってそのときからずっと無言の彼の隣に居たときから、ラウンジの順平とゆかりに話しかけようとした私の腕を取ってこの部屋まで連れてこられたときから、ずっと。それ以外の、例えば授業中も暇さえあれば真田先輩に作ってあげたいお菓子や、一緒に行きたいところなんか考えている。真田先輩で頭がイッパイになることが多くて困っているくらいなのに。
 何って、なに? 教えてよ。
「……お前は、」
 いつだったか、初めて真田先輩に迫られて彼へこの身を開いたときも怖かったことを思い出す。こうして自分よりも大きな体に退路を塞がれ、知りもしなかったことを刻み込まれることへの恐れ。ねえ、男の人は分かるの?
 私の右手を掴んだ先輩は、それ以上は何も云わずに――云えずに、だろうか―ー先ほどよりも余程荒々しく唇を重ねてきた。カチンッ、と歯がぶつかる。思わず奥へと逃げた舌を掬い上げられ、ない交ぜにされながら手は、スカートの裾からするりと中へ滑り込む。
 立ったままとか服を着たままとか、扉を隔てた廊下も気になるし、何よりこんな手荒な仕草は今まで経験が無いから戸惑った。映画やマンガで見たことはあっても、自分が経験するとなると話は別だ。耐えられない。怖い。愛撫と呼ぶには粗末な、男の劣情をただぶつけるだけの行為にしか感じられない。
 セックスに理想を求めているわけではないが、"わたし"が求められていないことが悲しい。ああもういやだ、生娘みたいな考え方をしてしまう自分がイヤなのに、本当に怖いんだ。真田先輩が居ない。私がいない。
「先輩、明、彦せんぱ、」
 お願いだから応えて、一言でいいから声を聞かせて。切望し、焦る心がトン、と彼の背を叩く。開いたブラウスの胸元に刻まれる鈍い痛みは、同時に奮えるほどの快感を孕んでいた。こんなにイヤなのに。イヤなのに感じる、なんてどこの三文小説だろう、下らないって思ってきたことが、自分の身体に起こっている。イヤ、なのに。
「っ、」
 脱ぎ捨てられた皮手袋、素肌の温もりが性急に下着を取り払おうとする。
「嫌!」
 乾いた音が鼓膜を打った。ジンッ、と手の平の痛覚が痺れて、真田先輩の頬を引っ叩いてしまったことに思い至る。
 円を描く瞳が呆然と私を見下ろす隙をついて、屈められた身体を力いっぱい突き飛ばす。よろけ、私に叩かれた頬に触れた先輩は、鳶色をぼやけさせて呆気に取れられている。
 ブラウスの乱れはジャケットの合わせを整えることで隠す。激昂し、震える手で胸元を掴む。鼓動が早い。ドッドッドッ、アイドリングしているバイクのようだ。呼吸に合わせた収縮運動を続ける胸をぎゅっと握り締めて、何か云いたげに視線を上げた先輩から逃れるため部屋を飛び出した。
 順平や天田君の部屋の前を通り過ぎて、走って、階段を駆け上がって、誰かとすれ違う可能性も省みず自室を目指した。
 焦る分だけ鍵が見つからず、廊下の先を何度も振り返りながらようやく見つけた鍵は、鍵穴に入ることを拒んだ。止めていた息を吐き出すと、じんわり涙が滲んでくる。
 冬場の冷えた空気に身体を縮めるが、暖房のスイッチを押すところまで足を動かすことはできそうにない。後ろ手に鍵をかけて、滑り落ちるように腰を下ろした。床も冷え切っていた。急速に下がっていく体温は、とうとう粒となって落っこちた涙と共に心をも冷やしていく。訳が分からず、頬の感触が残る手の平に顔を埋めた。
「……リボン、忘れてきたし……」

「オパールが四つ、ガーネットとダイヤモンドとルビーが一個、エメラルドが……」
「ねー、一個くらい欲しいなあ」
「だぁめ。私も欲しいけどすんごい我慢してるんだから」
ッチはお財布の紐がっちり握る奥さんになりそだナ」
 タルタロスのエントランス、二階に続く階段に腰掛けて敵が落とした宝石を数え、どのシャドウが所有していた物か手帳のリストに書き加えた。その隣でゆかりが、正面で順平が茶々を入れるのも毎度のことで、私はゆかりの悪戯な手を諫めながら笑った。
「んねー、真田サン。そう思いません?」
「……ん?」
「あり、上の空ッスか。俺せっかく良いこと云ったのに」
 どこがよ、と呆れた声で順平に毒吐くゆかりに苦笑を見せ、私は手帳を鞄に仕舞った。宝石用の布袋がかちゃりと音を立てる。確かに、宝石店でも開きたいと思ってしまう量だ。運営費もモナドで稼げそうだし、大学受験に失敗したときのことを考慮してこっそり貯金でもしようか。
「どうなん実際。テイシュカンパク?カカアテンカ?」
 私はもう一度タルタロスを上ろうかとコロちゃんと美鶴さんに声をかけていたから、彼はちょっと大きな声で話しかけてきた。まだ続いていた冗談に、ここ数日間の蟠りが解消し切れていなかった私は思わず、端的に返してしまった。
「知らない」
「あ〜その反応はアレですな、真田サン尻に敷いちゃってるカンジで図星だろ?」
 皆には散開してもらって、私が敵を倒そう。ちょっと疲れた顔が目立つけど、あと一回くらいなら……。
「真田サンも大変ですよねえー、気の強い娘サンで先が思いやられますなあ」
 転送装置の手前、くるりと足に尻尾を巻きつけてくるコロちゃんを見下ろした。
「いや、別に……」
 順平よりも低い声が応える。美鶴さんの足音が真後ろに立った。
「もう、順平うるさいよ、はそこがイイんじゃないの」
「ゆかりッチは分かってませんなあ。昼は淑女で夜は娼婦、男を立ててくれる子がイイっスよねえ、センパイ?」
「……俺は、」
「ごめんね、気が強くて男立てることもできない女で」
 真田先輩の言葉に被せるように、思いの外強い口調で私は順平を見据え云った。シン、とエントランスが静まり返って、笑っていた表情のまま凍りついた顔の親友を見つめる。
「されるがままになればよかったんだ?黙ってヤられてろってこと?」
ッチ、お、怒った?そんな女の子がヤるだなんて、」
 笑顔の中に焦りを見せて、順平はわたわたと手を振りながら弁解し始める。
「別に、怒ってない。無理して付き合ってくれなくていい。嫌ならはっきり云ってよ。どうせ、乱暴でガサツで薙刀振り回して身体だって傷だらけだし、イヤなら、フれば、いいのに。私じゃなくたって……」
?」
「何か怒ってるなら口で云って下さい!わかんないよ、男の人が考えてることなんて!嫌なら別れればいいじゃん!」
 真田先輩が大きな声で私の名前を呼んでいる。コロちゃんの温もりに涙がわきあがってくる。堪らず、私は転送装置に乗り込んだ。出鱈目に押した階層に飛ばされる間際に見たものは、置いてきてしまった美鶴さんとコロちゃん、そして装置に手を伸ばす間際の真田先輩だった。

 通信機の電源は落としていた。風花とも通信できなくなるけれど、独りになりたかったのだ。幸いなことに降り立ったのは何度も上っている階層だから敵の弱点は把握している。暫く戻らなくても一人でなんとかなるだろう。
 曲がり角で鉢合わせたシャドウが逃げていく。追いかけて戦う気にもならない。普段ならばタルタロスは頭痛の種にしかならないのに、今は不思議と落ち着く空間に感じられる。繊細じゃないからだ、とまた腹の底で可愛くないことを考えてしまい、軽く落ち込んだ。
(別れればいいじゃん、って、ホントに別れたいわけないのに。なに云ってんだか、バカ)
 見つけた階段を早々に上って、辿り着いた番人のフロアで足を止めた。ここなら敵も出ないし、死神も居ない。大型の転送装置の隣に腰を下ろして、機械の明かりに頬を寄せる。
 潰れた血豆が痛む。
(こんなの拵えた女の子が好きな男なんて居ないよね)
 彼が、私の表面だけを見て好きだと云っているのではないことくらい百も承知だ。あれだけ可愛い、綺麗、より取り見取りの女子に囲まれながら見向きもしなかったのだから、きっと私のことは内面をちゃんと見てくれたんだろうって。だけど、実際に付き合ってみてからどう感じたのかというのは聞いたことがなかった。ここは嫌だ、と思った所もあったかも知れない。だから、腹を立てた?だから、無理矢理どうこうしてやろうって思った?
 私が、悪いのかな。
 悪かったんだろう、きっと。
(どんな顔して戻ればいいの)
 膝の上に置いた両手を緑色の光が包み込んでいる。タルタロスの中で唯一安心できる光だ。
 幾重もの光の円が浮遊する中に手の平をかざす。ぽわっ、と微かな温もりがすり抜けていく。この装置はどのような構造になっているのだろう。機械いじりが得意の風花が興味津々だった。近未来が舞台の映画に出てくる物みたい。ペルソナ能力もそうだけど、テレビか映画、マンガのよう。慣れてしまったけれどたまに、現実離れした違和感を覚える。
(……美少女戦士には、なれないけど)
 真田先輩は大人しい子が好きなんだろうか。まだ先輩に気を遣っていた頃の、優等生ぶっていた私が好ましく映っただろうか。今は、随分と我侭で遠慮がなくなったと思う。恋人というカテゴリーに入るだけで、思っていた以上に親友や他の先輩より距離が近づくものだ。私は二度目の彼氏(まあ、前の彼とは何もなかったんだけど)、真田先輩には初めての彼女だって。もしも理想や憧れといった類の幻想を女の子に抱いていたとしたら、幻滅させたことも一度や二度じゃなかっただろう。
 美鶴さんのようにスタイルが良くて、ゆかりのように女の子趣味で、風花のようにおしとやか。三人合わせたパーフェクトな女性、ついでに荒垣さんくらい料理上手だったなら自信を持てたのかな、想像もできない。私は"わたし"であることに後悔も羞恥も持たない。
(けど、好かれていたいよ)
 今まで何度もエッチしているんだから、ドーンと構えて受け止めるくらいの許容を見せるべきだったのか。数日前のことを鮮明に思い出し、あの時先輩の頬を打った手に目を落とした。真っ白な肌が微かに赤くなっていたっけ。勢いのわりに手が震えて力が出なかったから、痛くはなかったはず。
(謝りたい。けど、私が悪いのか、分からない)
 付き合い始めた当初は楽しいこと、嬉しいこと、きらきらとさまざまなことが輝いていた。けれど、今は分からないことが増えて、不安に陥ることが多くなった。そこに訪れた、今回の出来事。真田先輩もきっと、私のことで何か分からなくなっちゃったんだ。説明できればいいのに、本人を目の前にすると言葉よりも感情が先立って、イライラしたりハラハラしたり。なんて、体力の要る想いなのだろう。
 こんなに苦しいならいっそ、好きになんてならなければ良かったのに。
 苦手だった熱血、戦うことに恐れを抱かない果敢さ、それらが惨酷な過去の呪縛に雁字搦めにされているが故だと知り、私に心のより所を見出してくれたことが嬉しくて、甘えてもらってるって、他の誰でもない私に話してくれることが誇らしくて、愛しくて。
 好きにならないわけ、ない。
 気になって、気になって気になって仕方なくて、寂しそうな顔なんてさせたくない、私は傍にいるって、伝えたくて。伝えられるポジションを貰えて、うかれていたのかな。彼の心が見えなくなっていたのかな。
 まだ、付き合ってそう経ってないのに。
 私に恋は、早過ぎた想いだったのだろうか。
!」
 堰を切った怒声が辺りを劈いた。彼が所有する電撃魔法が頭上から落とされたのかと疑い、通路の遠くから走ってくる真田先輩を見つけて咄嗟に、転送装置に手を伸ばす。
「行くな!」
「……、」
 絡まる声が手を止めさせる。唇を結んで俯き、近づいてくる足音の後にくるだろう、何かしらの衝撃に耐える覚悟を決める。怒ってる声は、それが誰のものであっても好ましくはないけれど、彼のものは特に聞きたくない。自分で怒らせることを云い捨ててきたのに勝手だ。私、本当に勝手なんだ。
 先輩以外の足音が無いことに気がついたのは、痛いくらいに抱き締められた腕の中で、真田先輩の情けない顔を見上げたときだった。
「どう、して」
 風花の探知能力で私の居場所を探ったのだろう。入った分だけ構造の変わるタルタロスで、唯一共通する番人のフロアなら会える確率は高い。けれど、風花のそれは精密とは云い難く、故に
(汗、かいてる)
 タルタロスの中を探し回ってくれたのだ。真田先輩の腰元から、通信機越しの風花の声が聞こえている。大丈夫、もう見つけたって云ってあげればいいのに、彼はずっと私の肩に顔を埋めている。締め付けが強まり、私はそっと背を叩いた。
「……本気、だったのか」
「え?」
 依然として離してはくれないけれど、二人の身体の間に隙間が出来るほどは力を緩めてくれた。先輩の後頭部を見下ろして、意図を尋ねる。
「別れたいって、思っているか?」
 悲しみ痛む声が絞り出された。
「あれ、は……」
「……思われても、当然、なのかもな」
 否定しようとし、呟かれた言葉に息を飲む。掴んでいた私の腕を優しく擦ってから手を下ろした。細かく植わった睫毛が数度瞬き、やおら閉じられる。
「すまなかった。お前に怒って、とか、……嫌って、したんじゃないんだ」
「じゃあ。……どうして」
 ふ、っと心の一部が既に軽くなったようだった。良かったと安堵する傍ら、解けない疑問を口に出す。
「……自分でも、驚いてるんだ。お前にはお前の生き方があって、隔てない優しさも好ましいと思うのに、同時に……」
 いい淀み、真田先輩は額から零れた汗を拭う仕草で顔を覆った。
「俺だけを向いていて欲しいと、願ってしまう」
「……」
「束縛はしたくないって云っても、あんなことした後じゃ言い訳にもならないよな」
 弁解のしようも無いと、先輩は頭を垂れた。ごめん、と短く呟かれる中にどれほどの後悔が生じているのか。
「幻滅、しただろ?こんな器の小さな男だったなんて、俺だって、知らなかった」
 タルタロスの中で何をしているんだろう。影時間に入って暫く経つが、このまま明けてしまったら風花同様内部に閉じ込められてしまうのだろうか。二人きりになれるならそれでもいいと思ってしまう私は、間違っているのだろう、きっと。
「私、淑女でも娼婦でも、ないし、気は強いし、可愛げだって、無い」
「順平が云っていたことか?」
「……冗談だってわかってるけど、真田先輩も、やっぱり守り甲斐のある女の子が良いのかなって。私は、自分が好かれてる自信なんて無い、ですから」
 渦巻いていた不安が言葉になって溢れ出す。タイルの上に憂えが雫になっておっこちた。先輩のベストが少しだけ汚れている。外された武器が二人の足元に転がっていた。頭蓋を模ったそれの真っ暗な眼窩が上向いてこちらを見ていた。視線を逸らし、顰められた眉の下、綺麗な弧を描く目蓋の膨らみを見つめる。
「俺は、……お前と、付き合うようになってから、益々、好きだと思うところが増えた」
 かあ、と顔に熱が集中するのを感じた。
「一般論なんか、どうでもいい。お前だから、好きなんだ。どうしようもないほど……」
 そこで言葉を切ると、真田先輩はタルタロスの高い天井を仰いで深いため息を吐いた。
「格好悪いな」
 自己を軽蔑視して首を振る彼の言葉は、そこから更に続くのかも知れない。けれど、私はもう聞いていなかった。どうでもいいとは云わない、しかし「もういい」と思ったのだ。
 抱き締める硬い身体。自分とは異なる人間、性別、思考、これからもっと複雑で分からなくて泣いてしまうこともあるのだろうって分かるけど、離せない。離してほしくない。
「好き」
 一瞬強張るが、すぐに、抱き返してくれる腕があった。
「俺もだ。……その、本当に、すまない。もう、あんなことは」
「……する前に断ってくれるなら、いいよ、別に。嫌いじゃないから」
「え」
 真っ赤な顔で驚いた先輩の唇に背伸びのキスを贈る。
 あまりにもあたたかくて、優しくて。その感触は最後に一粒だけ、涙を流させた。

 

「とりあえず、ムカつくから順平はシめてもいい?」
「……やめてやれ」

たまには痴話喧嘩をさせたくなるんです。