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本物が行方不明

 

 時刻は七時を過ぎた頃だったが、晩霞にけぶる室内は厚地のカーテンに閉ざされ、明かりも落とされたままであるから既に、夜の空気が其処此処に満ちていた。
 断続的な呼吸の微かな隙間に零れ落ちる甘い声が耳朶を優しく啄ばみ、太腿からゾワリとうなじの辺りまで駆け上る寒気に似た情動をそのまま、俺は彼女へとぶつけ続けていた。更にあがる、嬌声。か細く萎れる語尾がたまらなくて、寄せた唇でおとがいに触れる。ほんのりと熱く、浮き上がった汗で湿り気を帯びた前髪が、横向いた拍子に枕に流れた。
 つかんだ腰が細い。今まで、そういった類の雑誌やDVDでしか見たことがなった女性の、生身の肉体に視界がおかされる。映像的知識しか持たなかった俺にとっては些か小ぶりと思えた、しかしこれまでに見たどの乳房よりも好ましい双丘を手の中に、随分とこなれた動きで少女の中を乱した。この俺の、身体に追いつかない感情の騒擾が欠片でもいい、繋がり合ったそこから彼女に伝わればいいと祈りながら、そう、ひたすらに。
 祈り。
 そう呼ぶのは、男のエゴだ。これは侵食であり、場合によっては陵辱以外のなにものでもない、雄の行為だ。クソ、こんなこと、こんなことでしか伝えられないなんて。気持ちが募る度に、彼女をおかしたいという情欲に抗えなくなっていく。もっと欲しい、もっとしたい、俺は、こんな男じゃないと自分では思っていた。そう、十八年と一ヶ月間、信じていたんだ。己のことを心から信頼していた。女性には誠実な方だ、と。
 誕生日を一ヶ月過ぎた十月、"恋人"という存在と出会ったことで、一波が砦を粉砕した。豆腐の壁だったらしい。瓦解するのは、とても早かった。
「っ、ハ……は、ぁ、…あ、」
 唇を結んでこまやかに震える目尻を追う。震えが止まらない。ぷくりとたち上がった色づきを食み、両手で支えた腰を深く、深く、貫くように突き上げた。高く昇りかけた声は不自然な呼吸の乱れに変わり、チラリと、手の甲に口を押し付けて睫毛を揺らす少女を見上げた。絶え間なく室内に響く肌をたたく音と、ベッドの軋みに慣れる様子はなく、否、俺自身も未だ慣れずにこうして精神をかき乱されているのだが、彼女は特に恥ずかしそうである。恐らく、そういった音の連鎖が厭だと感じられないことも、彼女を困惑の坩堝に突き落とすが所以なのだろうが。
 足を支え、ひたすらに快楽を追いかけながらふと、上げた視界に優勝トロフィーが写り込む。強くなりたいと思ったきっかけは妹だった。鼻腔に焦げ付く煙の臭い、子供の泣き声、妹の笑顔。失ったものは少なかったけれど、喪った存在はあまりにも大きかった。大き過ぎた。ボクシングを始めた当初の俺はとにかく、世間を斜めに見ることしかできないくさった中学生だった。
(――なんで)
 今、この瞬間にそのような相応しくない記憶が蘇りかけて、俺は緩く首を振った。やめよう、今だけは考えたくない。幼い時代に時の流れを止めた妹には、この兄は見せられた姿じゃない。
(クソ、)
 悪態を心の中で転がした。
「ッ、んっ…、ぅあ、ぁ、ぁ、……ふ、ァ」
「く……は、ぁ、ッ」
 悪たれた心境のまま体を折り、俺は彼女の中でのぼり詰めることだけを脳幹に刻んでがむしゃらに、熱い身体同士を絡ませた。忘れさせてほしかったのだろう。長い髪、あまやかな声、蕩けるような肌と、俺自身の形にひろがった女性のそこで、とことんまで甘やかし尽くしてほしかったんだ。

(……なんて)

 きたないんだろうな。

「ァ、ん、ん……は、ぁ明、ひこ」
 不器用に呼び、手をうつろわせた彼女が、依然として腰を掴んだままだった俺の腕に触れる。筋肉が無いわけじゃない、しかし本格的に鍛えている男性に比べれば柔肌も同然の、の腕。薄白く、指先も爪も壊れそうな程に細い。女性が強い生き物だということは知っている、だが繋がった身体の儚さたるや。
 荒い呼吸を天井へと逃がし、俺は凍りついたようにガッチリと押さえ込んだままだったしなやかな肌から手を離した。くっきりと手の跡が赤く、俺の独占欲を示すが如く貼りついている。思わず眉を顰めた。
 まだじんわりと緩い脈動を続けている女性器の蠢きに背を爪弾かれながら、勢いの衰えた性器をゆっくりと引き抜く。赤味の増した秘裂に呼吸が荒くなりかけて、俺は、色づいた頬をそっと撫ぜた。はりついた髪をかき上げて、まろい額に唇を落とす。キスをしたいという気持ちも、彼女と会ってから自己の中より発掘した衝動だった。
 女性にまったく興味がなかったとは云わない、けれど周りが騒ぎ立てるほど欲したことも無い。そういう意味では、これっぽっちも健康的な男子高校生とはいえなかったんだな。
 机の際に寄せていたティッシュボックスから無造作に数枚引き抜く。エクスタシーの波が一気に静寂を取り戻すのを感じるが、見下ろした性器はまだ僅かに芯を持っている。溜まった精液の絡まる姿が無様か、滑稽に見えて、顰めた眉の間に更なる皺を刻む。さっさと処理をして振り返ると、そこには眠気を催して、背を向けていたちょっとの間に浅い眠りに落ちかけているがいた。
 事後はすぐに眠ってしまう彼女を笑み、手の平を使って乱れた髪を丁寧に梳いてやると、うつらと持ち上がった目蓋の裏から緋染めの双眼が覗く。力の抜けた体を支えるように一度、きつく抱き締めた。
「……好きだ」
 腕の中の反応に心臓に近い辺りがぬくまる。反応を見せる背を上下に撫でた。
 ここ最近忙しそうにしていたから疲れも溜まっていたのだろう、快感の余波とあいまってすっかり意識が遠ざかりかけている様子だ。
 俺は笑みを深めながら耳元で囁き、彼女の頷きを待つ。は以前、シャワーもお風呂も男と入るものじゃない(誤解を避けると、俺は風呂場で不埒を働いたことはない)と云っていたが、案外素直に首に腕を回してきた。
 汗がすっかり冷える前に、抱き上げた身体を持ってベッドをおりた。カチン、と時計の長針がてっぺんを指す。
 八時。数字を頭の中でこね回して、そういえば暖房を入れることをすっかり忘れていたと、今更ながら思い出していた。

「今年はいいよな」
 芳しいクッキーの風味がひろがるのに頬を緩め、摘んだ一枚を隣に座る少女の口に運ぶ。クッキーの他にも、俺の"糖分摂取"を目的に作ったのだというチョコレートの包みも机の上に置かれていた。
 これまでの人生で幾度も目にしてきた二月十四日の贈り物。から貰うものも、他の女子が俺のために作ったと云っていたものも、包装と中身にさほど違いはないと思う。だけど、そこに俺からの気持ちが植わるか否かで、差が生じるのだ。
「今年? あ、そっか、日曜日だから?」
「ああ。寮宛に送られてくる以外の物は回避できるからな、ありがたい」
「学校あるときは、受け取ってたんですか?」
 気分を害している色はなく、俺の周囲を想像してだろうか、苦笑しながら訊ねてきた。去年までを思い出すと、もっと早くこいつが転校してくれば良かったのに、とうんざりする思いだった。
「拒否するのも心苦しいが、数がな、食いきれないし断るしかなかった」
「はー……私が男なら一度は云ってみたい、かも。順平辺り、羨ましがりますよ」
「順平? ああ、伊織順平か」
 口馴染むほど呼んだことがない名前だが、それが同じ寮に住む二年生の男子生徒だと思い至る。俺のことを避けている節があり、挨拶と二言三言言葉を交わす以上の交流を取ったことがなかった。自分はあまり人好きする性格ではないことくらい分かっているが、そうか、とクラスメイトだと云っていたな。
「んー、寮に届くこともあるのかあ。じゃあ届いた分は別なお菓子に作り変えちゃおっかな」
 先輩に任せたら捨てちゃいそうだし、まさか異物が混入されてるなんて無いだろうから寮の皆で食べれるものを作りたいなあ、となにやら楽しそうに呟いている。
「お前は全員と仲が良いのか?」
「え、うーん…ゆかりと順平はクラスが同じだし、風花は料理部、美鶴さんは生徒会で、そうですね、仲良くしてもらってます」
「そうか。……俺は美鶴以外とは交流がないからな、伊織とだってマトモには」
 つくづく自身に呆れ、肩を竦めれば隣の少女の笑う気配。彼のような爛漫な笑顔を持つ男子と仲が良いのに、どうして俺なんかを選んだのだろうな、彼女は。
「なあ」
 軽い身体を抱き寄せて二人、ベッドの上に横になった。ドライヤーで乾かした長い髪の付け根が、まだ少しだけ湿り気を帯びているようだ。俺の顎下を甘く噛む悪戯をするをすっぽりと腕の中に収めて、ぬくもりに陶酔しきった声で呼びかける。
「んー……?」
 顎から輪郭を辿って耳朶を、お互いに目を瞑り、ただ温もりだけを感じているこの瞬間が好きだ。俺の胸元に手をおいて、あむ、としっとりした唇を寄せる少女の頭を撫でる。
 ふと、視線を感じて目蓋を持ち上げると、いつから見ていたのか分からない緋染めが覗いていた。
 彼女はたまに俺を凝視しては、この目の中に何か別な存在を見つけようとしているような、不思議な表情を向けることがある。どうしたと訊ねても、自身が「何が?」と凝視していたことに気がついていないようだから、この時も、俺は黙って見下ろす顔に手を伸ばすだけに留めた。
「俺はもっと、お前に惚れるきっかけがあった気がするんだ」
「ん?」
「今まで抱えてきたもん全部、お前に曝け出してるだけでも充分だけど、」
「他にもあったんじゃないか、って?」
 それは私、凄いなあ。女性一人分の体重を胸上に、肌を辿る指先にくすぐったさを訴えて俺は、低く唸った。
「お前は無いのか?そういう既視感のような……」
 あまり女子生徒と積極的に出掛けることの無かった俺が、彼女の転入早々から二人で休日を共にし、部活の無い放課後を付き合ってもらったことなどは記憶にも新しかった。何故彼女だったのかと問われたら、明確な答えは見つからない。打算計算の無い笑み(そんなことを云えば、途端に"女性"の顔で「強かじゃない女はいませんよ、明彦先輩」と云われてしまうのだろうが)を見せて他愛も無い話を振ってくれる後輩が珍しかったのかも知れない。
「……私は……そう、ですね。何か大事なことがあった、気もします、ね」
 構いたい、"守りたい"と思う気持ちは、きっと妹と重ねていると思い込んでいたから。
 そうだ、他人には語ることも、踏み込ませることも許さなかった、美鶴すらも他人から聞き知った以上は知らない美紀のことも彼女は知っている。俺に両親がいないこと、孤児院で育ったこと、色眼鏡で見られる可能性の全てが、の前では杞憂でしかない不安に変わる。
 それは俺にとって、どれだけの救いだったか。
 自分なぞ所詮は十八年そこそこしか生きていない若造なのだと思い知らされるほどハッキリと、幾重にも被さったかさぶたを自覚させられる。これっぽっちだって成長していない。腕っ節ばかり強くて、身体の大きなただの子供だ。何も掴めない非力な手と、独りじゃ自立もできない足。
 成長できたのは彼女の支えがあったからだった。彼女の知らない、俺の幼馴染の事件、立ち直るきっかけはがくれたものだ。高校生でしかない俺が、たった一人の少女を好きになるきっかけとしては充分過ぎる経緯なのだろうか。周りに目を向けてみれば、俺のきっかけは重過ぎる気すらしてくる。
 やれ顔がいい、スタイルがいい、それだけで付き合う奴らもいるかも知れん。これ以上何が起きたというんだ。
「あー、変なこと云ってるな。ここ一、二ヶ月のことが特に、もやもやしていて気持ち悪かったんだ」
 せっかくの甘い雰囲気をぶち壊しにしている気がした。こういう所が"KYだ"と云われる原因なのか、少し落ち込むがさっさと気を取り直し、俺は身体の上にを乗せたまま腕だけ、机に伸ばした。
「忘れちまったことは、これから上書きすればいいよな。それよりコレは、俺から」
 さっきから彼女の視線がこのショップ袋に注がれていたことはわかっていた。パアッと顔を明るく輝かせて起き上がると、髪を耳にかけてスルスルと外箱に絡まるリボンを解いていく。
 箱から取り出した布袋から、真新しい革とエナメル褐色の光沢が綺麗なキーホルダーが転がり落ちる。女性誌にも頻繁に掲載されているショップで購入したキーホルダーだ、たかがキーホルダーに五千円以上かかるとは思わなかったが、普段ただの輪に通しただけのの鍵束がずっと気になっていた。
「四月からは、また一つ増えるだろ?」
「……合鍵、くれるの?」
「貰ってくれなかったら、勝手にキーホルダーにつるしておくからな」
 笑って云う。
 たまに掠める不可解な既視感は、もう気にならなくなっていた。
 核心的な部分がポッカリと抜け落ちた感覚も、思い出せないことへの憤りも、内面から湧き上がる「思い出せ」という強い要求も、彼女を見ていたらちっぽけなことに思えてくる。
 が好きで、それが愛と呼べる性質の形に変化しようとしていることも実感として得ていた。

 これ以上に何が必要だろう。
 キリ、と微かな痛みが過ぎるも、「ありがとう」と笑顔になった少女を前に、サラサラと流れていく。

(まあ、いいか)

 ――全てのことを思い出すまで、あと十八日間。何も知らない二人の、ささやかなヴァレンタインだった。

基本的には、ウチの女主は3月に入ってから記憶を取り戻します。
イベント小説苦手な上に物理的にも長い話を書く時間がないので、
いつもより短くなっちゃいました。ごめんなさい(ショボ…)
ちなみに、詳しく描写してませんが明彦のあげたキーリングはJOSEPHの物って裏話w