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嘘泣きバンビーノ

 

 ぼおん。
 午後七時を告げる鐘が一回二回、決められた回数だけ鳴る。時鐘の音に誘われるようにダイニングデーブルの上に広げたノートから顔を上げて、賑やかな声のする方へ目を向けた。"いつもの"と云えるだけ見慣れてしまった賑やかさが場を満たしていた。
(珍しい、美鶴先輩も輪に入ってる)
 女帝は往々にして高嶺に存在しているものだ。それがいつからか喧噪の中に自然と溶け込むようになり、順平やゆかりの間で飛び交う話題に不思議そうな顔をしながらも加わるようになった。「美鶴は変わったな」――そう云ったのは彼氏だったか。変化を好ましそうな瞳で眺める彼の横顔は穏やかで、たおやかな女帝の所作に相俟ってそれはそれはお似合いだと思ってしまう。
 自分の彼氏だということが未だに信じられない、と、間違った計算式を消して考えた。
 季節は初冬、そろそろ指定の制服だけでは肌寒さを感じる頃。あの屋上での告白から、優に二週間が過ぎようかとしていた。進展は、何も無い。手は一度だけ繋いだことがある。勢いでされた抱擁以来、二人きりになっても至極真面目なものだ、キスすらしてこない。まさか「嫁入り前」がどうと、云うつもりはないだろう、もう少し何かあってもいいのにと、求めているのは自分だけなのか。虚しい、恥ずかしい、どっちが勝っているだろう、女子なんだから慎めなんて云われても困る。キスとか、したい。
(高校生男子の頭の中がエロいことばっかなんて云ったの誰よ)
 力を入れすぎてグシャ、と皺寄ったノートを見下ろし睨む。
(そもそも私にそういうの感じないとかだったら凹む。超落ち込む)
 気にしていないと云ったら嘘、真っ赤な嘘。ああ、真っ赤な嘘の真っ赤ってなんだっけ、お猿のお尻はまっかっか。違う、ばか。完全とか、確かそういう意味だったはず。
 昔から「聞き分けの良い子」を演じ続けてきた流れで、ゆかりには「仕方ないじゃん」と云ってること――去年まで、二人きりだったんだよね、と、ここ数日深まるもやもやとした黒い靄が脳裏を覆いつくす。
 二人きり。誰が、真田さんが。誰と、美鶴先輩と。どこに、ココに。寮に。
 ペキン、シャープペンシルの芯先があらぬ方向へ飛んでいく。小さな欠片は木目の細かい濃い色のテーブルの上ではすぐ見えなくなり、数式の消し跡に不恰好な読点だけが残された。もう一度同じ場所に消しゴムをあてるけれど、力を込めて刻まれた読点はすっかり消えることはなく、うっすら見てとれる。指で歪みを辿って、ため息。
 付き合い始めの二週間、普通なら蜜月と呼んでいい時期だ。相手しか見えない、相手の良い所しか見えない、友達よりも彼氏を優先にして友達に呆れられるのも、この時期特有だ。一緒に手を繋いで登下校をして、昼食は学年が異なっても一緒に取る。どこにでもいるカップルのようなことを自分がするだろうかと、自身は信じられなかったが自然な流れでそうなってしまうのでは、とも考えていた。期待していた、と云ってもいい。そのくらいには、真田明彦に抱く恋心は淡い少女マンガ性を秘めていた。
(「俺のものになってくれ」って告白とか、今までの熱血からはもっと、積極的っていうか、)
 もはや勉強など手に付かない。悶々と文句が駆け巡る。何も抱き締めて欲しいとか、キスして欲しいと強請っているわけではない、ただ、もっと構ってくれてもいいんじゃないかなって。……それを強請っているっていうのかな、分からない。
 真田先輩が、真田明彦であるが所以を好きになった。彼の不器用さ、過去、現在、想い、全てを好ましいと思っている。相変わらずのトレーニング狂も、別にいいよって許せる――ゆかりなんかは、それこそ「その時間をもっとコッチに割けって云っていいと思うけど」と云ってくれるのだが。強くなりたいと願う彼も、好きだから。
 好ましいことは全て許せると思っていた、それ自体が間違いだったのだろうか。学校の勉強をそつがなくこなせるのとは異なるのだと、頭で理解できても心がついていかないなんて本当にあるんだと初めて――
「ッ、あはは、もう、いい加減にしなよ順平、美鶴先輩困ってんじゃん」
 笑いながらダイニングテーブルを横切り、厨房に向かうゆかりが私の後ろを通り掛かる。
「って、えー、やだ、宿題なんてあったぁ?」
 少し高い声、笑い声を引き摺ったままの明るさ。間延びした語尾が頭の隅、どこか薄暗い影に閉ざされた扉を引っかく。私は顔を上げないまま、努めて冷静な声で返した。
「ないけど、復習。最近ずっとサボってたから」
「えーッ、だっていっつもトップキープしてんのにそれでサボってたとか軽く嫌味じゃん、ね、順平」
「そこでどうして俺に振るのッ!」
「頂点と底辺?」
「いい加減オレ様泣くから!」
 鐘の音は鳴り止んでいる、ゆかりの話がこちらから逸れたことでようやくラウンジに視線を向ければ、目が合った順平がソファの背もたれ越しに手を振ってきた。一人掛けのソファに順平、右手隣のソファに風花と、ゆかりの雑誌がテーブルにあるから彼女はそこに座っていたのだろう、彼女たちの前の三人掛けソファにはアイギスと、"彼氏"が熱心にボクシンググローブの水分を拭る手入れをしている――日課だ、そして一番奥の一人掛けソファに美鶴先輩。今夜はタルタロスには行かないと帰宅後早々に宣言していたため、それぞれが気ままな格好で寛いでいる様子だ。
 のに、
 ああもう、何か頭ん中ぐちゃぐちゃで気分悪い。
 先ほどゆかりには「復習だ」と云ったがそれは正しくもあり、間違いでもある。けれどもそれすらどうでもよく、影時間に入る前に自室で仕切りなおそうと、私は二冊のノートを閉じてトン、と角を合わせた。そこにコンビニエンスストアに売っている小さめの紅茶のパックと冷蔵庫で冷やしていたらしいチョコレート菓子の箱を持ってゆかりが戻ってきた。
「あ、やめたの?ごめん、もしかして邪魔した?」
 笑いの沸点が落ち着いたらいつまでも引き摺らないのがゆかりの良いところ。私はそんなことない、と素直に笑って彼女の後に続いた。二冊のノートと筆箱がわりのポーチを小脇に、ソファの空きスペースを探す。入寮したての頃は席が全て埋まることなんてなかった、ふとした瞬間に人数の多さを実感する。
 ダイニングの仕切りを通ると、直ぐ傍に座っていたアイギスがさっと立ち上がって手を横向けた。三人掛けソファのまん中に座れ、という意思表示なのだろう。順平がソファの上で体育座りをして体を前後に揺らしながら親指をグッと突き出した。
「アイちゃんグッジョブ!空気読める子!」
「アンタが読めてないんじゃないの」
「読める空気、場の空気というものですね、グッジョブ一本入りましたーありがとうございまぁーす」
「また変な言葉教えてるし!ピンドンコール?!ばかじゃないの!」
 いよいよ笑いが止まらないとお腹を抱えた順平につられて、呆れた口調のゆかりもつられて笑い出す。私は真田先輩の隣で若干の居心地の悪さを感じながらソファに腰を置きなおした。どうせならこのまま部屋に篭ってしまいたい気分だったのだ、自分ひとり感じる具合の悪さ、集団の中で孤立する感覚。膝の上にノートを抱えたまま、貼り付けた笑顔で応答する虚しさ、胸の中心にぽっかり孔があいている、どうせならタルタロスに行って発散させたら気楽じゃないかとすら。
「そうだ、明彦。ボクシング部についてなんだが――」
 二年生と三年生で分断される会話、どっちつかずに取り残される私。チラリと、風花が視線を寄越したのに気がついた。
「あの、ちゃんさっき復習してたんだよね、ノート見てもいいかな?」
「いいけど汚いよー」
 二冊重ねていたノートの上を渡すと、ソファから降りた順平が後ろから、ゆかりが真横から覗き込む。特別工夫を凝らしているわけでもない、変哲無いノートだから感心することなんて無いだろう。
「なんだ、じゃあ副部長からそっちに話がいってなかったのか」
「ああ、明彦から話を聞いていたからおかしいと思って、明日中には生徒会に出すように云ってほしいんだが……」
「そうだな。ちょっと電話してくる」
 半身が僅かに揺らぐ。美鶴さんの後ろから順平側へ、誰も見ていないテレビの前、そして先ほど私が座っていたダイニングの椅子へ。後ろポケットから見慣れた携帯電話を取り出し通話ボタンを押す姿すら、ああ、なんだか、胸が苦しい。
「あれ、オレこれやってないんだけど」
「そんなわけないでしょ」
「えー、まじまじ、ほらここ。オレこのとき超やる気あったもん覚えてるって」
 風花とゆかりの肩越しに腕を伸ばしてトントン、と指先でつつく。
「そういえばね、解釈っていうか、なんか違う?」
「勉強の仕方が違うってことッスか、もしかして。同じ授業を受けながら俺たちこんなに違うなんて……!」
「アンタと同じ括りにされるのすっごい心外なんですけど」
 ダメだ、何だか余裕がない。適当に彼らからノートを返してもらって部屋に戻ろうかと、半分腰を浮かせたところに電話を終えた真田先輩が携帯電話をポケットに戻しながらこちらへ来る。彼は先のように順平の後ろを通り、ふと彼らの後ろから風花の手にある私のノートを見て云った。
「そこ、俺のノートを見たんだろ?」
 思いがけない人物からの言葉に二年生三人は一様に驚いた顔で振り返り、真田の続きを視線で促す。三人の目を難なく避けて腰を屈めた真田先輩は、ゆっくり視線を上下に動かして一度、頷いた。
「この解き方は去年まで居た教師のものだからな、違っててもおかしくないな」
「え、てか何で、先輩のノート借りてんの?必要ないんじゃない?」
「どうして必要ないんだよ」
「あっ、ちょ、真田さん待っ、」
 少しムッとしたように眉を動かした真田さんは、その場で腕を組んでため息を吐いた。ダメ、その先は云っちゃ、
「タルタロスを一番長い時間走ってるのはだろ、授業中寝てしまうから俺のノートを借りに来たんだよ。お前らに心配かけさせまいとしたんじゃないか」
「……それを明彦、お前が云ったらいけなかったんじゃないか?」
 美鶴さんの最もな台詞に「そうか?」と一言、首を傾げる真田先輩を尻目に私は、テーブルに残していた一冊、真田先輩が二年生の頃使っていたノートを掴んで、風花の手から自分のものも奪い取る。その勢いに驚いた友人たちが目を剥く奥、立ったままでいる真田さんを睨んで言葉を走らせた。
「黙ってて下さいって云ったじゃないですか!」
「どうして黙る必要があるんだ。そもそも仲間なんだ、心配をかけてもいいだろう」
「それは、けど、」
「ついでに、タルタロスでの戦闘手順を一人で考えるのも止めろよ。何でもかんでも一人でやろうとするな。タルタロスから戻ってきて、その夜の内に反省点を並べるなんて、後で仲間とやってもいいことだろ。だから授業中眠くなるんだ」
「……だって、」
 命令する声色ではない、限りなく優しく、労わるように柔らかく云われているのに悔しさと腹立たしさがこみ上げてくる。今晩は虫の居所が悪いのだ、特に、彼に対する鬱憤が溜まっているから、頭の中でブツンと一本、太い紐が切れる音を聞いた。
「成績トップとかリーダーとか、期待されすぎで重たいし、けど幻滅されたくないから、だから、先輩なら黙っててくれると思ったのに空気読めないし、大体真田さんのことが一番の悩みなんですから!だから勉強も全然手につかないし、いい加減にして下さい!」
「なッ……俺が、どうして」
「だって! 俺のものになってくれとか云っておきながらなんにもしてこないし!素振りも無いし! 時間全部欲しいなんて云わないけどもう少し構ってくれたっていいじゃないですか。なのに余計なことばっか皆に教えてるしッ、美鶴さんは明彦明彦呼んでるのに私はいつまでも真田さんとか先輩とか、もう、……、ヤダ。ばかみたい」
 途中から冷静になってきていた、馬鹿馬鹿しさと泣きたいような気持ちが混ぜこぜになって、握り締めたノートで顔を隠す。私と真田先輩に挟まれているゆかりと順平、風花が呆然と、二人の間で視線を行き来させている。突然叫び出したら誰だって驚くだろう、名前を出された美鶴先輩然りである、長い睫毛がパチリ、パチリ、数回瞬きするけれど口が開くことはなかった。
「……部屋、行きます」
 アイギスの前を無理矢理通り、足早に逃げ出した。背後で「あき……さ、真田ッ、何とかしろ!」と珍しく慌てた美鶴さんの声が響いていた。わざわざ真田って言い直すなんて、なんて可愛い人なんだろう。
 駆け出した足は結局自室まで止まることはなかったけれど、誰か美鶴さんに「気にしてません」ってフォロー入れてくれればいいなあと、半分泣きたい気持ちで、笑った。

 それから程なくして、トントン、と控えめに扉が叩かれた。どうせ真田先輩だろうとベッドに寝そべったまま無視を決め込んでいたら、真田先輩が扉に隔たれた篭った声で云う。
、ここ開けてくれないか」
「寝てます」
「……なあ、さっきのことは悪かった、お前にだけ苦労させたくなかったんだ。だから、他の奴らも少しは知ればいいと思って……」
「荒波立てただけじゃないですか」
 最も、一番の火種は私が投下したものである。
「とにかく、開けてほしい。さっきのことで、云っておきたいことがあるんだ」
 枕を抱えたまま顔を上げて振り返る。カーテンも閉められていない、煌々とついた明かりに照らされた窓には部屋が映っている。ごろんと横向きに、真っ直ぐ扉を数秒間見つめてため息。根競べで真田先輩に勝てる気がしない。
 トン、とやはり音がする。まだそこに立っているんだ、皆にせっつかれて仕方なく来たのかな、余計なことを。
 元々ホテルだった手前各部屋の施錠は一般的な家庭と比べて厳重ともいえる、合鍵は美鶴さんが管理しているらしい、ゆるゆるとドアノブを握って開けると、すぐ傍に、赤いベストが構えていた。
「せ、」
 先輩、言葉に仕掛けた音はヒュウ、と喉奥まで舞い戻っていく。内開きの扉は半分も開くことなく真田先輩の手によって閉じられ、鍵もかけられて、私は真田先輩の腕の中に閉じ込められた。
「あ……の、」
「どうせ、空気が読めない男だよ、俺は」
 結い上げた髪にふわりと、鼻先を埋めた先輩の声が扉に隔たれてもいないのに篭って聞こえて、そのわりに肌に直接響くように鮮明で、なにこの、矛盾。頭の中をぐるりと巡った思考は、フツリと途中で途絶える。
「一度触ったら」
「……」
 洗剤の匂いがするベストとワイシャツ。トレーニングに勤しむ時間が多い分、着替える回数も多いからいつだって、洗い立ての匂いがする。
「好きなんだよ、本当に、お前のことが」
 また、私の不器用さとか、一人で何でもやるところとか、そういうのを責めに来たんだと思った。きついくらいの腕は確かにずっと焦がれていた感触だったけれど。
「だから、怖かったんだ、嫌われたくなかったから……」
 短い襟足はワイシャツの襟に届かない。すっきりした首筋は白いけど、体温が通った生身の人間なんだって今は分かる。分からなきゃおかしい、んだろう、こんなにぴったり隙間なくくっついているのに。
「嫌う、わけ」
 大体、云いたいことが理解できてきた。段々と体中がほてるように熱を持ち始める、先輩が触れているところが疼いて、落ち着かない。嫌うわけがない、と呟いた私を否定するように一度、ゆるく頭が振られた。身体を離した真田先輩は私の両肩に手を置いてちょっと上から、視線を降ろす。困ったように笑って、するりと額を合わされる。
 間近で閉じられた目蓋の膨らみを目でなぞって、すっきり通った鼻筋、から薄い唇まで辿り着く。睫毛なんてきっと、私よりも長い。頬にできた影を見つめていると、その睫毛が上へ持ち上がって、肌同様に薄い色素の虹彩が現れる。瞳孔がきゅっと狭まって、私に焦点を合わせられた。

「……はい」
「……、」
 私の名前を、こんなに感情を込めて云ってくれる人が居るなんて。ぼうっと瞳を見返していると、再び瞳は閉じられた。そして、
「……嫌じゃ、ない、か」
「足りない、です、むしろ……」
 赤い顔で笑ってみるけれど、余裕っぽくは見えなかったんだろう。くすぐったそうに、頬を綻ばせた真田先輩が「この、」と私の頬を挟んでもう一度、今度はゆっくり唇を重ねた。

「あの後結構大変だったんだからね、美鶴さんってば慌てちゃってさ。"私があまり明彦と気安く呼ぶから喧嘩させてしまったのだろうか"とか、超可愛かったけど、宥めておきましたー」
「ゆかりありがとー」
「っていうか何、あんた飢えてたの?」
「飢えッ……!?」
「順平とかすごかったよ、アイツただのスケベ男子だからさ、何もしてこないってナニしてほしいのッチー!とか超ウザ」
「あー……想像できるね、それは……」
「で、構ってもらった?」
「……うん、まあ、それなりに?」
「ちょーマジ羨ましいよねー、あー私も彼氏欲しくなってきたー。真田さんみたくめっちゃ顔イイとか安心できないけど」
「ハハハ、ね」
「美鶴先輩が男の人だったら好みなのになあ……」
「ゆかり……そっちに走っちゃダメだよ」
「わかってますよーだ」

ゆかりと美鶴は可愛い。
>ハム子の明彦呼びにしょんぼりして「さ、さなだ!」に変える美鶴さん。
でゆかりが話聞いてくれて最終的にゆかみつ、っていうネタを戴きました。
ネタは萌えるよね!肉付けが私だったのが残念ですか。ごめんなさい。