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告白モラトリアム

 

 ダイニングルームのテーブルに用意した、夕餉と呼ぶには粗末なスーパーマーケットの惣菜を並べた席で、私は『それ』を汚れない位置に置きながら箸を進めた。
 寮生は銘々好きな時間に適当な物を食べることが習慣になっているから、同じテーブルに座っている人間は他にはいない。宛がわれた自室にいる者、ガラスで仕切られた隣のラウンジで談笑する者、様々であるが思い思いの時間を過ごしている。時刻は既に午後九時に差し掛かっているらしい、親友の岳羽ゆかりが「ドラマ始まるじゃん、順平、リモコン寄越して」とチャンネル権を行使していた。
 先週のあらすじも知らないテレビドラマに然程興味は無く、一人の夕食を続ける。時折ダイニングルームを通ってキチネットへ、更に奥の浴場へ、お手洗へと向かう生徒がいたが、イヤホンを耳に掛けて熱心にノートを読んでいる私に話しかける者はいなかった。
 ページをめくるごとに読みづらくなっていく文字。よれて、かすれて、それでも語ることを止めようとしない細い文字が紡ぐ話を、何度も繰り返し、最後まで読んだらまた頭に戻って、ゆかりが見始めたテレビドラマが来週の予告を放送する頃になるまで読んでいた。
 《ジャングルに住むピンクのワニがいた。
 その体色からまともに餌にありつけず、常に腹を空かしていた。
 ピンクのワニに小鳥の友達が出来る。
 しかし、あまりの空腹にワニは間違って小鳥を食べてしまう。
 あわてて小鳥を吐き出したが、小鳥は死んでしまった。
 ワニは泣きつづけ、ワニの涙で湖ができる。
 そのままワニは死んでしまう。
 ワニの涙の湖は、他の動物達の憩いの場になる。
 誰もピンクのワニのことなど知らずに。

 暗い話――幾度目かの同じ感想を胸中で転がし、手元に引き寄せたマグカップに口をつけた。読解を深めるにつれ、窈然たる一面は消えるどころか益々浮き彫りにされる。
 彼はこの物語の中に「誰もが生きる意味は死んだ後に明かされる」という意味を込めた。それは分かる、しかし「理解できる」というだけで納得できるとは限らない。私は一ページ目をめくり、しかし二ページ目へは進まずに、ようやくノートを閉じることにした。こびりついたソースの乾き始めた皿とご飯茶碗を片手にまとめ持って、ぐるぐると考えが渦巻くまま席を離れる。
 死去して初めて功績が讃えられた作家やミュージシャン、映画監督などは実際に多く存在している。狭義には、あの物語のワニのように誰とも何とも関わらずに生きていくことなど不可能であり、家族や友達、学校や社会、名前を認め合う人間がどこかに居るというだけで人間の存在意義は成立するだろう。万人に知れ渡る存在ではなくて構わない。もしも私が死んだら、ここまで育ててくれた祖父母は泣いてくれるだろうし、友達の一人や二人も同じように涙を流してくれるかも知れない。私は、それだけでも充分生きてきた意味はあると想っている。
 彼、神木秋成くんのように残年の知れぬ状態ではないものの、シャドウとの闘いは死と隣り合わせの局面に晒されることが多く、今までに「このまま死んでしまったら」と背筋を凍らせる場面に遭遇したこともままあった。そういった意味では、彼の話を自分のこととして聞いてきたつもりだった。否、彼と接することで、慣れてしまった闘いに再び緊張感を持つことができていた。
 季節はいよいよ寒さの厳しくなる頃、ぬるま湯で洗う手元よりもガランと広い厨房と呼ぶべきキチネットは足元が涼しい。食器用洗剤の泡を落とした皿を水切りカゴに移す。
 左から右へ動かす単調な作業を続ける内、じわりじわりと感傷的な切なさが押し寄せてきた。西日の差すベンチで別れた神木くんのお母さんの顔が忘れられない。水道のコックを上げて流れていたお湯を止めると、微かな残音を引いてキチネットは静かになる。蛇口の表面に溜まった水滴が、ポツンと一粒銀色のシンクに落ちた。
 そして、私は唐突に思った。
 もう、神社に行っても神木くんは居ない。
 きゅうっと胸がへこむような切なさに心が萎んでいく。もしかしたら、このことを確認するためにノートの物語を何度も読んだのかも知れない。余命が幾ばくも無いことは分かっていたはずなのに、実感に乏しかったのだ。だけど、例え別れが初めから想定されていたとしても、彼と知り合えたこと自体は後悔にはならない。それゆえに、悲しかった。もっと色んな話をすればよかった、そんなことばかり考えてしまう。
「――っと、ビックリした……。ボーとしてどうしたの?」
 キッチンの作業台に寄りかかって立っていた私に、飲み物を取りに来たのだろう、空のマグカップを持った岳羽ゆかりが訊いた。
「ゆかりぃ……」
「やだちょっと、何? 大丈夫?」
 ラウンジの賑やかな音を背負ったゆかりの元まで近づいて、然程高さの変わらない肩の上に両手を置いて俯いた。ほのかに香った湯のぬくもりが優しくて、私は喉の奥で詰めていた息を吐き出すと、神木くんの話を聞いてもらう。
 ずっと手を握って、私の話に静かに耳を傾けてくれるゆかりの優しさに助けられた、夜だった。

 等間隔で植えられた木の葉がちらほら地面に散っている。手前を歩くゆかりと帽子頭の伊織順平の背中を追うよりもゆっくりと、後ろを付いて歩く下校道。二人と一緒にポロニアンモールで装備品の調達を行った帰りである、久しぶりに大人数で交番に押しかけたことを、黒沢さんは驚きながらも「いつもこのくらいで来いよ」と少し笑ってくれた。
 ガサガサ、ガサガサ。順平が腕から提げたビニール袋が、彼が歩く度制服のスラックスに擦れて乾いた音を立てる。ガサガサ、同じ音が自分の腰の辺りからも聞こえる。三人で分け合ったビニール袋は、順平の分が女子二人よりも少しだけ重たい。
、本当にこれだけで足りたの? 順平もいるし買い溜めしても良かったんじゃない?」
「タルタロスでも拾えるからね。使い切った分だけ補充できれば充分だよ。順平には、いつでも手伝ってもらえると思うし?」
「あら、さりげなく否定できない流れじゃね、これ」
 私とゆかりを見るように順平はくるりと身を翻すと、間髪を入れずに云った。帽子の鍔をちょっと押し上げて、「可愛くお願いされたらね、そりゃあヤブサカではないデスヨ」と笑う。
「じゃあはい、の可愛いおねだりまで3、2、1」
 ゆかりが三本立てた指を目の前で一本ずつ減らしていくから、一がカウントされる前に立ち止まった私は両手を後ろに回して、順平を下から見上げると柄にも無い甘えた声を出してみせた。
「お願いっ、じゅーんぺ」
 場の空気が一瞬だけ完全に静止した後、最初に耐え切れなくなった順平がカッカと笑うと、私とゆかりもつられて騒ぎ出す。
ッチ表現が古いッ!」
「うっさいばじゅんぺ」
「いや、今のは無いわあ。、テイクツーいくよ」
「もういやですー、やるくらいなら一人で買い物行きます」
 順平は何も知らずに合わせてくれているが、ゆかりは夕べの内には払拭し切れなかった翳りにも気がついているだろう。ポロニアンモールの本屋に隣接する文房具コーナーでレターパッドを購入するところを見られていたし、レジ越しに確かに一度合った視線を受け止めた彼女の表情は、私の行動に何かしらの意図を感じているものであった。
 学校指定の茶色い革鞄の柄をぎゅっと握り締めて、私は二人の背中をポンと叩いて彼らの一歩先に足を踏み出した。モノレールの路線が目線の上に伸びている。電車よりも丸いフォルムの、大きな窓が特徴的なモノレールが発車したところだった、拗ねた素振りをする私を持ち上げる順平の声を聴きながら、タルタロスの中止を決めた。

 一番上にトリコロールカラーのラインが、一番下にくしゃくしゃっと描いたエッフェル塔のイラストが描かれた、A5サイズより気持ち小さいレターパッド。真っ白い紙に線が入っているだけのシンプルで量の多い物でも良かったのだけど、棚に置かれた中で最も「重たくない」物が、これだった。
 二枚目をめくると、ラインが入っていた場所は青空を意識した水色と旅客機のシルエット、エッフェル塔の部分には旅行鞄とライカを意識したレトロなカメラのイラスト。一枚目と二枚目のデザインが交互に続いた十二枚綴りの一般的な冊子だ。お揃いの封筒も売っていたけれど、机の引き出しの奥に、確か祖父母に手紙を送った際に残った物があるはずだ。マットな手触りのこげ茶色の封筒は、この便箋の雰囲気にも相違ないはず。
 帰宅してから、着替えて、ご飯を食べて、談笑する輪に混じって、シャワーを浴びて、一足早く部屋に戻った。まだ各自ラウンジに居る時間帯は上階は静かだ、開錠する硬質な音が廊下に響き、共鳴するかのように窓がガタリと軋んだ。
 机の上に投げ出されていた鞄から文房具店の名前が入った袋を取り出して、神木くんのノートと並べる。その物語は彼が病床で書き記したものだ。書かれている物語はたったの一つ、それも長いものではない。要約すればたったの九行におさまってしまうような、この中に込められた神木くんの想いと書かれた背景を知らなければ、ものの三分で読み終わってしまうような、そんな物語。
 神木くんの隣で、あの神社のいつものベンチで読ませてもらったときのことを思い出した。日曜日の仄かな陽光と、寒くなり始めた冷たい空気の染み渡る昼時、私が差し入れたホットミルクティーを両手の中に握り締めながら、唇をゆるく引き結んだような笑顔でジッと、彼は私の横顔を見つめていた。
 幼い頃から人並みの体力に恵まれなかったらしい、色素の薄い肌とほっそりと痩せた肢体に顎下まで伸ばしたボブカットの髪。整った面立ちなのに影の差した表情しか見せないから、勿体無いよ、って何度も云ったんだ。笑顔を見せて、って、無茶もお願いした。その度に彼は、下唇の上に上唇を乗せてゆるく口角を上げると、頬と目だけで笑って見せてくれた。これでいい?って云う声が、許してって云ってるようで、私の方が笑えなくなって、無理やり笑った顔はさぞかし不細工だっただろう。
 ペンを持つ手に力をこめて、ぎゅっと握り締めた。
 彼のように、彼が私の心を強く打ったように、私も何か文字に残したいと想ったから、この便箋を手に取った。
 十月の満月、真田先輩の手をすり抜けていった彼のように、私もこの戦いの最中に命を落とすかも知れない。両親亡き後、私をずっと育ててくれた祖父母は勿論、友人にも心を痛めてくれる人がいるだろう。だけどまず、真っ先に浮かんだのは、いつだって前を向き続けている、大切な人の後姿だった。燃えるような真っ赤な色のベスト、りんしゃんと伸びた背筋、短く切り揃えられた髪、たまにワイシャツの腕を留めるガーターの位置を直す皮手袋に包まれた手。こんなに愛しいという感情を抱くのは、これが最初で最後かも知れないと、高校生の時分にも考えてしまうような、人。
 便箋の書き出しを一行あけて、「真田明彦様」と名前を書いた。よく考えてみたら改まった手紙の書き方も、書き出しも知らない。今まで書いたこともない。「様」の最後のとめ部分でペンを止めて、名前を数秒間見つめるが、まあいいかと新しい行にペン先を置いた。
 そもそも私が彼の傍から意図せず離れることになったとき、どんな気持ちでこれを読むことになるのかも分からないのだ。なるべく、畏まらない方がいいだろう。残す気持ちは大きくないほうが、負担は減るはずだ。だから口調も軽く、いつものように、普段の調子で、話し言葉でいい。
 どんな書き方をしたって、悲しい時は悲しい。辛いときは苦しいし、切ないときは泣きたくなる。それならば、何能天気なこと書いてるんだよって、怒りたくなるような、苦笑したくなるようなものがいい。私なら、そういうものが読みたい。
 背後のコンポから音量を抑えた音楽が流れ来る。特別な趣味も、お金をつぎ込む程好きなものも無いけれど、両親の好みで昔から音楽だけは好きだった。家には沢山CDがあったし、祖父母の家には父が若い頃に使っていた針を落として聴くLPプレイヤーも置いてあった。プレーヤーの棚には沢山のレコードがみっしりと詰まっていて、数枚は母と私が暮らす家に持ってきていた。最も、それらは聴くためではなく飾るための所謂ピクチャー盤という物だ。通常は真っ黒なアナログレコードの盤面に、レコードのジャケット写真などがコーティングされたもので、シリアルナンバーが付いている物があるくらい希少価値が高く、一般的なレコードよりも値が張るものらしい。エルヴィス・プレスリー、マドンナ、ザ・ビートルズ、マイケル・ジャクソン――現在でも愛されている有名なアーティストの盤以外も所有していたが、私は一度だって祖父母の家であのコレクションに手を伸ばすことはなかった。
 自分が社会に出て働くようになったら、あの棚のレコードを全て譲り受けようと考えて、それまでは祖父母に大事に保管していてもらうことにしている。それまでは、このお年玉を貯めて買ったコンポで我慢だ。
 同年代の友人らは有名なロゴ・マークしか知らないだろう古い、しかし今なおロックシーンを前線で走り続けている海外のバンドの曲が流れている。いつも何を聴いているんだと黒沢さんに訊かれて好きなアーティストの名前をあげた時の顔が忘れられない。「本当は俺と同世代じゃないのか」と破顔して、若いのに最近の曲は聴かないのかと心底驚いたように云ったのだ。年は若いからって、今時の曲が好きとは限らない。勿論嫌いではないから、ゆかりや順平とカラオケに行ったとき困らない程度には歌えるつもりだ。でも、浸りたいのは、生まれるずっと前の曲ばかり。
 大切な人を思い浮かべながら書くのも、そういう曲に包まれている時が良かった。いつも聴いているはずなのに、気分を盛り上げてくれるよう。どうして手紙を書こうと思ったのか、書く切っ掛けをくれた神木くんのこと、S.E.E.Sに入ったばかりの時の話、タルタロス、ペルソナ、リーダーに抜擢されて、真田先輩が復帰したときの話。端的にまとめようとしながらも、改めて思い返すと聞いてほしいことは沢山思いついた。
 便箋を優に四枚は使って、真田先輩を好きだと自覚したときの話に入った。本題に入るまでが長すぎだ、と推敲すらしないで思いつきで書きなぐったことを後悔しつつ、これはこういうものでいいのだ、と思い直して便箋にペンを落とした。
 カチ、コチ。時計の針が十一時を差す。そろそろ皆自室に戻った頃だろう。一応就寝時間らしいものは決まっているのだが、守っているのは美鶴先輩とアイギス、あと天田くんくらいなものだ。真田先輩も規律は守りそうなのに、宿題とストレッチ、あと軽い筋トレをしてから寝るらしいから案外遅寝だと云っていた。意外なのか彼らしいのか分からないと、その時も思った感想と同じことを考えて、ふふ、と笑う。
(ホント、いつから好きだったのかな)
 月曜日と金曜日は部活動が無いから暇なら声をかけてくれと云われて、素敵な容姿の先輩と放課後デートとかカッコいいかも、と不純な、というよりは真田先輩に対して失礼な考えから校内でも話しかけることが増えた。順平やゆかりとも放課後を共にするから、その延長線だったのだ、はじめは。そこに特別な感情なんて無かった、絶対に。
 半ば予想はしていたけれど全く女子の扱いに慣れていない所は共感が持てたし、牛丼屋やファースト・フード、ラーメン屋だって下手に洒落たところに連れて行かれるより肩に力が入らなくて良かった。異性に見て貰えないことが寂しいとか、つまらないという気持ちはあったけれど、ずっと一緒に戦う内に気にならなくなった。
 なのに、見つけてしまった翳りと、知ってしまった理由。彼が児童養護施設の出だとも、妹を喪っているとも、誰も教えてくれなかったから、横っ面を突然張られるよりも驚いた。それからチラホラ過去を語ってくれることが多くなって、転入してから初めて両親の話をしたのも、そんな頃だ。同情するとか、私の話に合わせた悲しげな顔を作ることもなく、中途半端に真摯な姿勢を取るでもなく、彼は自然に受け止めてくれた。
 顔色一つ変えず、話し終えた私の頭にポンと手を置いて、「つらかったな」と、云った。
『辛いとか、今はもう、全然感じませんよ。普段は思い出さないですし、ね』
 それが恥ずかしくて、苦笑しながら返した私に、真田先輩は目を細めた。
『そうか』
『そうです』
『なら、俺と居るときは例外にしろ』
『……は?』
 頭の上に置かれたままの手がゆっくりと、後頭部へ下がっていくのを感じた。
『俺も、普段は妹のことを思い出すことは無い。けど、お前と居るときはよく思い出すんだ』
『……』
『だから、お前も、俺と居るときくらいご両親のことを思い出せよ』
 結われた髪の先まで指先が滑り、真田先輩の手が離れていく。命令のような言葉にポカンと口を開けてしまった私は、何故だか泣きたくなった。泣きたくなって、けど笑いながら返した。
『何それ、変なの』
『いいじゃないか』
『……悪くは、ないです』
『よし』
 最後まで偉そうに、それでいてひどく優しげ頷くものだから、その瞬間真田先輩と一緒にいる時間に意味を見出してしまった。それから、彼と話しているときの自分がいつの間にか順平や小田桐くん、ベベや友近、その他の男子生徒と話すときとは全く違うんだってことに気がつくのは、早かった。元々自分の感情には素直、というか、思い込んだら好きも嫌いも一本の線にしかならない。直情型と謂うのだろうか、仲間が地に手をついたときは全力以上の力で敵を叩き伏せるし、真田先輩の一件で私という存在を嗅ぎつけた女子生徒にも反発した。勿論ペルソナ無くしては一人じゃ戦えないし、いじられたくなんて無かったから、その分味方の傍に居続けて一人きりになる時間を極力減らしたのだ。狡猾な私は、嫌いだろうか。
 お前は、俺が守る――抱き締める腕から、こちらへ染み込む声。シャボンの香りに顔を埋めて、何度も頷いた。一緒に戦いたいし、私も先輩を守りたいと思っているけれど、守られるだけが厭だとはちっとも思わない。私の好きな人が、私のことを一番に考えてくれて、私を好きだと云ってくれる人であるという充足感に似た喜び。
 便箋に文字を連ねていく間、ゆっくりと真田先輩のことを考え、今この瞬間、手紙を書いているときの心境を語った後、ピタリと手が止まった。過去から現在までの流れを思い返して文章にしたためるまでは良い、けれど、この手紙は私が居なくなったときを前提としているのだ。
 この先のことに、私はいない。何を、書けばいいのだろう。
(私のことは忘れて幸せになって下さい)
 嫌だ、忘れないで欲しい。
(先輩のこと、ずっとずっと好きです)
 だからもう居ない私のことも好きでいて下さい、って自己中だ。
(たまには思い出して下さい)
 違う誰かと? 先輩が私と一緒にいる間は妹さんのことを思い出していたみたいに? 私の知らない他の誰かと共有するの? 過去の恋愛として? 後輩として? 誰かを腕に抱きながら『お前は、俺を置いていくなよ』なんて囁きながら、思い出すの?

 そんなの

 いやだ。

 

 *

 影時間を抜けた深夜の寮内はシンと静まり返っていて、冬の息吹こそ窓の外に満ちているのだろうけれど空調の設備が整った元ホテルの寮は廊下も微かには暖かい。それでも足元から上ってくる冷たい空気にぶるりと身を震わせて、私は目当ての扉を小さくノックした。
 コンコン、コン、二回と一回。一拍の間を挟んで忍ぶ音を響かせると、耳に痛い静寂の奥からコツンと確認する音が返ってくる。それに対して、やっぱり一度コンと間接でノックをする。
 すぐに鍵が開けられて、部屋に招き入れられた。中の温もりを逃がさないためと、寮の他の仲間に見られないように扉の前では会話をしないようにしているから、するりと伸ばされた手に背を押される。パタン、と余韻を残して背中で扉が閉じる。真田先輩はドアノブを握り締めたまま、戸板にすっかり背をつけた私を見下ろした。距離は腕一本分、程度。すぐ近くの体は、深夜の訪問を驚いているようだ。
 最初のノックの合図の他にも、なるべく互いの部屋を行き来する際は事前に携帯なりで連絡を取るようにしていた。いくら寮母が居ないとても、それ以上に恐い存在と一緒に暮らしているし、仮にも高校生であり、男女一つ屋根の下の共同生活は特例中の特例。仲間はある程度見逃してくれるだろうし、見て見ぬフリをしてくれている所に甘えている自覚はあるが、公然と恋人同士の雰囲気を出すのは不謹慎だ。女子フロアの三階に真田先輩を招くことは出来ないから、大抵は私が先輩の部屋を訪れるのだけど、それも部屋の前では声を出さないのが決まり事になっていた。そうして、自分たちなりに誓約を作って付き合っている。
 まあ、合図はこうしようとか、色々決めようと云い出したのは私なのだけど。
 だって楽しい。お忍びとか、秘め事とか、そういうのってエロティックな感じがする。
 《しのぶれど 色に出にけり 我が恋は 物や思ふと 人のとふまで
 そう詠ったのは平兼盛だったか、百人一首にも載っている有名な歌だ。あの人を想う気持ちを知られないように隠してきたけれど、とうとう顔色に出てしまいました。誰かに恋してるんだね、と訊かれるほど――確かそんな意味だ。そのくらいが恋愛では一番楽しいのではないだろうか。
(まあ、忍びすぎて『しのぶれど 色にはまったく 出ていません』とかなったら最悪なんだけど)
 そんなことを考えながら真田先輩の顔を見上げると、彼はちょっと困った顔で苦笑した。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「……会いたくなって」
「……そうか」
 ゆるりとドアノブから離した手を頭に持っていき、真田先輩は自身の後頭部を撫ぜて顔を背ける。肩に隠すように大きな欠伸を零すと、手の平で眠たげな目元を擦った。
 私の右側に寄った身体越し、部屋が見えるくらいに視線を向けると、人が抜け出た形跡のベッドがあって、パジャマ代わりのトレーナーとジャージのパンツも裾がちょっとだけ乱れている。
「寝てたのに、ごめんなさい」
「いい、今に始まったことじゃ、ない」
 云いながら欠伸をして、「悪い」と口の中でもごもごと呟く。ああこれは本当に眠いんだなと、私自身も影時間の間は仮眠を取っていたから完全に眠気が飛んだわけではない分、つられて眠くなってきた。
「私、先輩に手紙を書いてて」
「手紙……?」
「けど、捨てちゃったんです」
「……ん?」
 しきりに目を擦ったり、首をさすったり、なんとか私の話を聞こうとしてくれている先輩はしかし、夢も見ないというノンレム睡眠にいたらしい。半ば寝ぼけているような顔で、理解できないと眉根を顰める。この状態でノックの合図を覚えていたのだから、すごいとも思うが。
「伝えたいこと、聞いてほしいこと、全部自分で云わなきゃ意味ないと思ったし」
 トレーナーの背に腕を回して、柔らかい感触に額を押し付けた。
「言葉だけ残すの、嫌だなって思ったんです」
「……すまん、意味がわからない」
 普段は結わいている髪をおろしているから、てっぺんから背まですとんと先輩の手が滑っていく。そのままやんわり抱きとめられて、思わずため息を零した。
 この声、この温もり、この鼓動、全部失いたくない。私が先輩を失うのも嫌だし、私以外の人を先輩の傍に居させたくもない。独占欲と恋情が連なる胸中をそっと抑えて、硬い背をポンポン、と叩いた。


「ずっと一緒に居させて下さいって、云ったんです」

POH!一周年ありがとうございました話。
ネタ元は75さんですが、戴いたのは
神木くん→自分でも何か残したいと思う→けど云いたいことは自分で云います
って大元の流れくらいでしたので、大分個人的に細かい肉付けをし過ぎました。
いつもより長く書けたし、大変満足しております(笑)ありがとうございました。

これからもPOH!をどうぞよろしくお願いいたします。

引用:百人一首・40番、平兼盛、出典「拾遺集」