reprinting of anthology

ファタリズモ

 

 
僕は持ちたい、家の中に

理解ある妻と、

本のあいだを歩き回る猫と

それなしにはどの季節にも

生きていけない友達と

ギヨーム・アポリネール [ 猫 ]

 

女主人公名・有里公子


 かなかなかな。ジィージィージィー。
 日増しに勢いを失っていく蝉たちの鳴き声はそれでも、マーブル模様に暮れなずむ夕空の高みにのぼっていく。かなかな、微かな響きが頭上で尾を引いて消えていった。
 いちだんと、空が高い日だった。
 親友は蝉の声をうるさいと云う。けれども僕は夏らしくて好きだと思う。初めてこの手で彼らを捕まえたとき、手の平にも満たない小さな体から激しい抵抗を受けて、魂ごと奮えているのかとぎょっとした。
 ぎょっとして、そして愛しくなった。一週間、または一ヶ月間しか生きられない昆虫。きちんと世話をしたら変わるのではと、抱いた淡い期待が気泡もなく消えてしまうほど定められた命の期間。
 僕が、それは彼らの魂が大きすぎて小さな器に収まりきらないからだと云ったら、幼馴染が笑って否定したのを覚えている。
『アキ、蝉は土の中に何年もいるんだ。お前が捕まえたのなんて、俺たちよりずっと年上だったかもしんねえじゃん』
 まるで歩く図鑑のような幼馴染の語る真実は僕を驚かせると同時に、虫の命に対する興味を失わせるにも充分だった。『僕より年上か、なあんだ』と、そう思ってからは、虫カゴが急に軽くなったようだった。
 ジィー、ジィー、ジィー。
 思い出した記憶は、まだ鮮明な色を持っている。僕はランドセルを背負ったままコンクリイトの段差に腰を下ろすと、先生から返されたばかりの画用紙を広げた。長方形の画用紙の下に、僕の名前が書かれた小さな紙が貼り付けてある。

 [ 真田 明彦 ]

 僕の名前、僕の名字。初めての名字。

明彦≠ニいう名前すら、親が付けてくれたものだ、という認識が持てない僕は、当たり前の顔で平然と居座る名字に不思議な感覚を抱いていた。児童養護施設から小学校に通っていた頃は、学校でも施設でも妹の美紀と、幼馴染のシンジと三人で過ごした。僕らは同じ思い出を共有し合い、し続けるのだと信じきっていた日々である。
 画用紙の中心で笑う僕たち。泥だらけの靴を幾度となく洗った水道と、施設の入り口。図画工作の時間に描かされた絵のテーマは、家と家族だった。
 子供ばかり三人の絵に、クラスメイトは『キョーダイしかいないじゃん』と笑い、先生は『真田くんのお父さんとお母さんも描いてあげようね』と諭した。これが僕の家族だと云っても、誰も信じちゃくれなかった。
 お父さんとお母さん。真田≠フ名字をくれた人たち。
 画用紙をくせの通りに丸め直して、ぎゅっと握り締めた。見据える先には瓦礫が撤去された跡が色濃く残る空き地がひろがっている。
 ここには、家があった。家族が居た。真田の名字を与えてくれた人たちじゃない、今住んでいる家ではない。児童養護施設という、唯一無二の家族と暮らした家が建っていた。何故今は無いのだろう? どうして消えてしまった? そして僕は何故、消えた先にいないのだろう。妹は――。
 僕に名字が付けられたとき、シンジも遠くに引っ越して行った。引越しの日、僕は彼の乗る車を必死に追いかけた。泣いて、喚いて、転んでも立ち上がって、とっくに車が見えなくなっても走った。走り続けた。もうなにもかもが遅いことくらい、分かっていたのに、僕は。
 どこに行くの、シンジまで僕を置いていくの、一人はイヤだ、独りにしないで。地面に俯いた僕の肩を抱いたのは、真田のお母さんだった。初めて、施設の先生以外の、大人の胸で泣いた。柔らかく包んでくれる身体にお母さん≠感じた。知らない感覚だった。
 それから暫くの後に届いたシンジの手紙には、僕と同様に見慣れない名字がついていた。
 そうして僕は、彼が自分の家族ではなくなったことを自覚したのだ。最初から分かっていた。なのに、ひどい喪失感だった。
 真田のお父さんとお母さんは僕を愛してくれる。クラスメイトの親たちのように授業参観では後ろに立ち、運動会では大声で応援してくれた。テストで百点を取った時はおもちゃを買ってくれた――誰とも分け合う必要のない、僕だけのおもちゃ。シンジに見せびらかしてやりたかった。
 美紀やシンジと見つけた変な形の石や、美紀が作ってくれた折り紙は全て火事で失ってしまったから、宝箱に入れる一つ目の宝物になった。
 僕だけを見てくれる人たち、帰る家。真田≠フ名字。
 どれもこれも眩しくて、信じ難くて、僕は手を伸ばすことができない。触れたら消えてしまうんじゃないかって、マッチで擦った夢のような光景に、たじろいでいる。何より、隣にも後ろにも美紀が居ないにも関わらず、幸せだと思ってしまった自分自身が許せなかった。

 シンジは、もう慣れちゃった? 僕のこと、美紀のこと、忘れちゃった? 届く手紙には、そっちで出来た友達のこと、お父さんと遊んだこと、色んなことが書いてある。僕は、寂しい。こんなに会いたいのは僕だけ?

 半ズボンから伸びる膝小僧に顔を埋めて、この場所で過ごした思い出に浸った。喧嘩も沢山したはずなのに笑い声しか、思い出せない。きっと、こういうのを「現金なやつ」って云うんだろうな。
『――きみ、』
 低い大人の声がすぐ近くから呼ぶ。見上げる先には、既に夕日の沈んだ暗い周囲に溶ける、濃紺の制服を着た若いお巡りさんが立っていた。
『毎日、ここに居るね。お家はどこ?』
 咎める音ではなかったことに安堵して、ちょっとだけ迷った末に、目の高さまで屈んでくれたお巡りさんに云う。
『僕の家は、ここなんです』
 狼のように鋭い目がちょっと横を向き、空き地に添えられた。
『妹は、僕が帰ってこないと泣いて心配するから、だから……』
 一度だけシンジと二人で通学路ではない道を遠回りして遅く帰宅したことがあったけれど、その時は美紀が騒いで施設はちょっとしたパニック状態だった。以来、僕たちは寄り道をしなくなったし、美紀が小学校に上がってからは三人一緒に登下校をすることが当たり前になっていた。
 だから。僕が帰ってこないと、美紀はまた、騒いでしまう、から。
『君は……明彦くん、かな』
 お巡りさんは帽子の鍔を持ち上げて、ほんのりと目元を和らげた。日に焼けた肌がシンジに似ている気がした。どうして名前を知っているのかと訊ねれば、お巡りさんはやんわりと口角を持ち上げて笑みを形作る。
『ここで起きた火事を知ってるんだ。君のことも、よく知ってるよ』
 僕は子供だけれど、このお巡りさんは美紀のことも知っているのだと直感した。厳しさを湛えた瞳は苦手な先生を思わせるのに、日の暮れた時間帯に一人きりで居ることを咎めない人柄に、心がざわめく。
 僕はやっぱり迷いながらも、今まで誰にも打ち明けることのなかった胸の扉を、お巡りさんに向けて僅かだが開いてみることにした。
『誰も、僕を責めないんです。お父さんもお母さんも、シンジ――友達も。妹を一人にした。助けなかった僕を。今は僕だけ、幸せなのに』
 間違っていることを正してくれる警察官なら、きっとこんな僕を叱ってくれると思えた。美紀のことを「仕方なかった」と片付けられたくない、僕は兄だ、彼女を守るべきだった、誰かにそう云ってほしかった。
『とても大きな火事だった。大人だって、何もできなかったんだ。君が、自分を責める必要なんて無い、そんなことは分かっているんだよね?』
『――分かって、ます。消防士のおじさん皆に止められた。けど、美紀は僕を呼んでた、絶対に、僕を待ってた! 助けてって……熱いって、云ってたのに、子供だからって、そんなの、関係ないのに』
 握り締めた画用紙は、両手の中でくしゃくしゃに曲がってしまった。この絵を描いているとき、ずっとずっと虚しかった、もう僕の傍にないものばかりの嘘だらけ。何も意味を持たない絵だって、分かってた。
 しゃくり上げて泣き続ける僕にかけられたのは、焦りも宥めもしない、同情する大人の態度を感じさせない冷静な声だった。
『ここで私が叱っても、君は弱いままだし、やっぱり美紀ちゃんを助けられない子供のままだろう。責められたいと泣いて、慰められるのを待って。毎日ここに来て、皆を心配させて、それで何か変わるのかな』
 ヒクッ、嗚咽が喉でせき止められた。帽子の鍔が深い影を落とすから、お巡りさんの目はハッキリと見えない。彼は続けて云う。
『自分だけ幸せになることを負い目に感じるなら、余計、今から逃げちゃいけない。何も投げ出さず、受け止めてみせるんだ。幸せも、悲しみも、全部。そして大人に止められても振り切れるほど強くなればいい』
『……つよく?』
 僕が呟めきに繰り返すと、お巡りさんは頷いた。
『何もしないで誰かに声をかけられるのを待つのは、卑怯者がすることだと、私は思う。それとも、そんな兄≠ナいたいのかな?』
 砂利を靴の底で踏みしめ、立ち上がった濃紺が背筋を正す。帽子を被り直す間際、真下から覗いた目は厳しいばかりではなく、確かに僕を見守る温かさを含んでいた。僕は、初めて「大人」を見た気がした。
『――さ、もう遅いから家まで送るよ。真田明彦くん』



「子供相手に手厳しいですね」
 どう反応して良いか分からぬ体の、困却しきった苦々しい笑みは、少女の常平生から外れた感情表現だ。ただ俺も、あの頃理解できたことは「強くなりたい」だけだったから、そうだなと笑うしかない。
「黒沢さんも、厳しいことを云うだけの経験をしてきたってことだろ」
 ローテーブルに置いたグラスを傾けながら、真田は苦笑気味に云う。
 この日は少女――有里公子と共に、港区のポロニアンモールで装備品の調達を行った。俺たちと同じように手を繋いで歩く恋人たちを流し目に辰巳東交番所の扉を開けるのは些か無粋であり、寂しいものだ。戦いに身を投じる自分たちが誇らしい反面、忘れたい日も在る。
 俺たちが交番に入ると、カウンターの向こう側で書き物をしていた黒沢巡査が、上げた視線を暫し停止させて、いつもの口角をクッと押し上げる笑みを浮かべた。
「付き合い始めたとは聞いていたが、意外とあからさまなんだな、明彦」
 割りに耳触りの良い低吟の語尾が高く擦れるのは、男がからかいを口にするときだけだ。「は?」と間抜けな声を上げた俺は、肩口で揺れる茶髪を視界に捉えてようやく、繋いだままだったらしい手を離した。
 少し下にある顔は、目の前の黒沢さんと同じように悪戯な笑顔を浮かべていた。わざと、自分からは手を離さなかったのだろう。
(……あとで覚えてろよ)
 ひっそりと恨み言を頭の片隅に転がして、にこやかに黒沢さんに話しかける公子の背中を追った。
 特別課外活動部に公子が参加して間もない頃、彼女を黒沢巡査に引き合わせたのは自分自身だ。しかし、まさか自分たちの交際まで筒抜けになるほど親しくなっているなぞ思考の範疇になかった。
 交友関係の幅を厭わない彼女らしいと云えばそれまで。しかしこれでまた黒沢巡査に頭が上がらない理由が増えていくなと、細長く紡いだため息の隙間、遠い過去――ランドセルを背負っていた「泣き虫アキ」を思い出したのだった。

 そして話は冒頭に戻る。
 寮に戻った後、俺は公子を部屋に招いて黒沢さんとの出会いを語って聞かせた。ここ最近では、不可侵であった己のテリトリーに公子が居ることにも慣れて、手足の感覚が無くなることも、わが身の鼓動で何も聴こえなくなるなぞ謂うこともなくなった。勿論、彼女の一挙一動に振り回される雄の性を実感することも多いのだが、幸か不幸か俺たちは未だに抱擁以上の行為に至ってはいない。
「そういえば、『昔、ちょっとしたことで世話になった』って」
 彼女を黒沢さんと引き合わせた時の会話だったか、よく覚えているなと、一寸目を細める。もう、ずっと前のことのように感じた。
「ああ、話しかけてくれた警察官が黒沢さんと知ったのは随分後だけど……あの人には何でも相談できた。不思議とな」
そこで一度言葉を切り、息を吐くように呟いた。
「俺は、何れにせよ力を求めたんだろうけど……黒沢さんが近道を作ってくれたから尊敬しているし、恩人だと、思ってる」
 カーペットの上で伸ばした足先に、床に転がしたダンベルが触れた。
「……恩人かあ。そういう大人ってそう出会えるもんじゃないですよね。厳しくあたるって、つまり子供扱いしなかったってことだし」
 コンビニエンスストアで購入した紅茶のパックを両手に持ち、公子はしみじみと言葉を零す。彼女の、こういった豊かな感受性が好ましい。
 子供相手にも峻厳を極めた黒沢巡査の態度に苦笑こそ禁じえないようだが、彼の人の言葉に驚いた素振りは見せない。「厳しいですね」と云っても、言葉自体に意外性は見出さなかったのだろう。
(黒沢さんは、変わっていないということか)
 現在少女が接している巡査の印象と、俺の持つ過去の印象にブレは生じていない――その可能性は、少なからず俺を喜ばせた。
 黒沢巡査は寡言の人である。身の内に秘めたる信念の縁はおいそれと触れさせない。だが、過去には俺に道を示したし、現今の戦いに援助も惜しまないから、語らないながらに、彼は彼自身の信じる道をしっかりと歩いている。その結果生じたものを見て、俺は彼のことを「正義の人」だと評価して疑わない。正しい道義を保ち続けることは、年を重ねるほど困難になっていくだろう。黒沢さんはそれを貫ける人なのだ。
「いつもね、大人は何もしてやれないって謝るんですよ。けど、私たちに任せなきゃいけない黒沢さんも、悔しいんでしょうね」
「そうだな」
 それにしても、と、巡らせる思案の周縁に苦味を落とした。
 薄らぼかさう苦さは愛しさに酷似している。真面目な話もできる相手と共にある時間は心地良い。しかし、それが恋人だと喜び半分、焦燥半分。色気のなさに気をもむ。悪戯心が疼いて、隣に座る公子と距離を詰めた。見上げる緋染めが僅かに揺らいだ、とは自意識過剰だろうか。
「だから、そんな恩人に手を繋いでるとこを見られるとは思わなかった」
 云わんとする事柄を察知したのだろう。しまった、という顔をして、もしくはワザと作り、公子は唇を結び笑った。
「意外と、根に持つタイプですよね。先輩って」
「まあな」
 ベッドのへりに頭を乗せる少女の後ろに腕を回すと、二人の間に開いていた距離がグッと近づく。表情や声よりも、呼吸や匂い、体温など人間本来の要素がこま濃やかに伝わってくる。香り立つような少女の香りがして、思わず目蓋を閉じかけた。
(――酔いそうだ)
 たゆむ思考の片隅がうすい紅色に染められる。しかし伸ばした腕で抱き締めようとした俺を制止させたのは、幽玄な響きを纏う声だった。
「……恥ずかしい、ですか?」
 言葉尻が上滑りして、今度こそ発言を後悔する「しまった」という少女の表情。言葉は彼女の肚で悔やまれながらも、続けられる。
「その、私と付き合ってることが? 恥ずかしいのかな、って」
 俺はこの瞬間どんな顔をしてしまったのか、まなじりまで揃った睫毛が数回瞬き、緋染めが俺の前から眼瞼の裏に消えた。慌てたのは、俺よりも彼女の方が先だった。
「あ、と、恥ずかしいの意味が違うのは、分かります。けど、……」
 ピン、と伸びた白いソックスのつま先。糊のよくきいたボックススカート、制服はタルタロスで汚れることが多いから、桐条から何着も送られてくる。その裾に添えられた手がぎゅっと握り締められ、細い骨が皮膚を持ち上げた。
 俺の拳は空手家のような鋼の拳ダコは無いにしても、ボクシングで鍛えている分他の部位と比べて皮が厚い。主観にも左右されるが、綺麗だとは言い難いだろう。それでもこの手を武骨――洗練されていないとは云いたくない。こんな下らない矜持ばかり人並みにあるのだ。
 だがそんな俺でも、華奢な少女の手と比べてしまうと引け目を感じて、壊してしまうのではないか、と悩むのだ。公子が、思考の頂点に居る。
 余所事に気を取られている俺をチラリと見上げた顔が、心惑の後にそっと、ベストの肩に凭れ隠れた。思わず呼吸を止める。僅かに吸い込んだフレグランスに呼帰さるる眩暈、がなる鼓動を募らせた。
 スカートを掴んでいた片一方の手は、セーター地の縫い目に指を引っ掛けて聢と握られる。俺は、応えるようにぎこちないみじろぎで背に手を添えた。限りなく微弱な力である筈なのに心が狂(ふ)れる。
人間の体がやわいことなど知り尽くしたつもりだったが、少女の肉体に抱く柔脆さは、幻想であったとしても到底慣れることなぞできない。 心は、武骨な未熟者だと認めざるを得ない。
「……黒沢、さんは」
 くちてずつな話し方で、公子が云う。
「私が、真田さんのこと好きだって知ると、色々教えてくれたんです」
 陰気で他力本願なひ弱い幼年期。児童養護施設の育ち、養子であることを笑い物にするクラスメイトと取っ組み合いの喧嘩をしたことも一度や二度じゃなかったが、勝てたことは無かった。悔しぶ俺は黒沢さんに柔道の教えを仰ぎ、その後に身を守るだけでなく果敢に立ち向かっていけるようになりたいと思ってボクシングを始めた。
 養父母にも教えていない昔話だ、そんな話をしていたのだろうか?
「どこまで本気か……感心してたんですよ、アイツが女に興味を持つなんて、って。どんな魔法使ったんだって真顔で聞かれちゃって、もしかして知らずにマリンカリン使ったのかなって本気で、考えたり。あ、その前に魔法使えることバレたのかってちょっと、ビックリしました」
 付き合いが長いのも善し悪しだ、過去がそっくり彼女に伝わることなんて想定しちゃいなかった。公子以外に恋人を作っていたとしても、警察官という職務に順ずる黒沢巡査を紹介する必要前提条件は皆無であったろう。それこそ真田の両親と顔合わせするまでは、自分の過去が筒抜けになる恐れなぞなかったはずだ。
「最初は全然必要以上のこと話さなかったんですけど、真田さんのことをよく知ってるって分かってからは、私もつい口が軽くなっちゃって」
 結い上げた髪がふるりと揺れて、漸漸(やくやく)離れた公子の頭。眉毛を隠すくらいの短い前髪、弧状の薄い皮膚を持ち上げる瞳は限りなく紅い。下がった眉根を顰めた少女は、続けて云う。
「昔を知っている人から、認められたら嬉しいし、」
 セーターの編み目に食い込んでいた指がゆっくりと外され、薄いシャツの袖越しに手の平の温もりを感じた。ふんわり添えられる手の感触に胸の下がうずうずと落ち着かなくなる――集中しろ。
「学校では秘密で、寮は……ゆかりと順平、あと風花は気が付いてるんだけど、やっぱ、寂しいなあって、いうか」
 これまで俺たちは、こと恋愛に於いてぶつかったことがない。勿論、内分するものはそれぞれあるはずだ、俺が進捗を望んでいるように、端的に云えばもっと触れたい、とか、さもしく願っているように、公子も迷いを抱いているだろうとは考えていた。
「……ごめん」
 謝罪に対して呆気に入るのも一瞬、公子はすぐに両手を振って慌てた。
「違う、謝ってほしいわけじゃないんです、その、」
 重ねられていた手の感覚が消えてしまうのが心寂(うらさび)しくて、後を追うように片手を取り、そのまま抱き寄せる。握り締めた手が小さい、柔らかい。抱いた背は、真っ平で滑らかだ。軽微な抵抗は反射的なもので、背をまるく抱く腕に凭れるように、公子は再び俺の肩口に戻ってきた。
「うまく云えないけど、黒沢さんなら私たちのことを知っても騒がないし、きっと相談にも乗ってくれるだろうな、とか――隠したり、遠慮する必要のない場所が欲しかったんです、たぶん」
 意気沮喪する語尾はくじけ弱まり、多分と云い落とされるまでに殆ど聞き取れないくらい小声になっていた。
皮張りの表面を桴(ばち)で打ずる反響を公子の呼吸に感じる。首筋に額を摺り寄せ、タイを緩めたカラーの隙間に言葉が落とされると、体の中に直接声が響くようだ。こそばゆく、歯がゆい。皮膚に直接伝わってくる声が、ドラム音のように体の中に響き渡っている。どれだけ小さな声であっても、今の距離なら聞こえない声はないだろう。
「……やっぱり、ごめんな」
 一度引っ込めた謝罪を再び呟いた途端、細い眉がきゅっと皺を刻んだ。
「いや、その、違う、俺が云いたいのは、その……」
 女が真面目な話しをしているときに艶言をつくし好色に気を取られる男の性、恐らく俺たちの思考は随分と食い違っているはずだ。
「お前の周りも煩くなると思ったから、学校では隠していたくて、寮は、活動に支障が出ることを回避したかったんだ。俺は、こうなったこと自体を恥じたことはない、嬉しいとしか、思わない」
 そんなことは言葉にせずとも諒解の内にあると信じている。公子は表情を変えることなく、胸元からやや見上げ、続きを待っていた。
「……どこかでけじめをつけないと、探索に入っていないときに入り口で黙って待機するだけなんて到底できないって、分かるんだ」
「先輩、たまにすっごい凝視してきますよね」
「部屋にお前と居た後とかな」
 笑って云うが冗談にはならない。
 せめて山岸のような、美鶴のような探知能力が自分にもあったなら、ありったけの力でバックアップができるのに。耳の奥に轟めく追い詰められた影の咆哮が、何時この子の助けを求める声に変わるかと、危ぶむばかりで非力である。おのれの薄い皮手袋を握り締めて、只管階段に座ることを余儀なくされる時間。長い、長い、地獄のような時間。
「正直、俺は……」
 ざわめく心で静かに逡巡する思考を紡ぐべく、薄いからだを力強く抱き寄せた。あまり、顔を見られたくない。先ほどまで在った色事も、このときにはすっかり鳴りを潜めていた。
「言触らして歩きたいって、思ってる。いつも」
 云うつもりのなかった言葉は、一つを皮切りに次々溢れてくる。
「お前は俺のものだって、傍に居るのも守るのも、好きだと云える権利も、俺だけが持っていたい」
 ゆるやかに波打つ盛り髪に鼻頭を擦り付ける。
 女性を物同然に扱って所有権をひけらかしているつもりは毛頭無いのだが「ただ俺一人の人であってほしい」と願って止まない。
「妹は両親の顔を知らなかったが、俺は思い出せない。知っていたかも分からない、捨てられたのか預けられたのか、どんな事情があったのか」
 狭い背中とくびれた腰。股座に寄せた体が身動ぎ、公子が優しく俺の背中を撫でた。この話になると必ずされる、すでに癖になっている。
「親も、兄妹も力、も、見せ掛けだって思ってた。絆とか想いだとか、見えないものを信じるのが怖くて、俺は持てないものなんだって、」
 むかしより強くなったなんてどの口が云うのだろう。少女の小さな手が上下する感覚だけが背を押してくれる。十数センチの面積が、俺を丸ごと包み込んでいる。こんなこと、少し前なら想像もしなかった。
「与えられるおもちゃもトロフィーも、上っ面だけ眺めた賛辞も当座に過ぎないから何にも満足できなくて、けど、力を求めるほど、自分が何を求めているのか分からなく、なって。今なら妹も守れたのにと、後悔するだけで……」
 じっと身をまるめる公子の髪に触れ、スプレーで整えられた尻尾に指を通していく。合わせた胸のぬくさと、規則正しい鼓動の足音に、だんだんと涙が出そうになってくる。
(ほしかった)
 ふっと漏らしたため息は、確かに泣いていた。
「本当は、お前だって俺の前から居なくなるかも知れないって」
 俺の背をたゆたっていた手がピタリと止まる。赤茶けた髪が震えて、確かな動揺が伝わってきた。
「今でも、火事の炎が忘れられない。煙の臭いも、シンジの乗っていた車の色も、黒沢さんが背負った夕日も、そんなことばかり忘れられない。今の俺なら、公子を画用紙に描くんだろうけど、もし、また……それが嘘になったら――」
 急に胸の中に霜が降りた。冷え冷えと凍える底から、もがくように差し出される二本の腕。骨ばっかりの細い子供の手。握り締めた画用紙はくしゃくしゃに拉げて、もう何が描いてあったのか定かではない。もう一方は形ばかり大きくて何も掴んでいない、真っ黒な手袋で、空回りする拳を隠した虚しい大人の手。
「だから、云えない。誰にも、お前との関係を、云うことができない」
 これは屹度、公子にとって思いがけない告白だろう。相変わらず顔を見て話せない臆病をもはや隠しもせず、彼女が聞きたがった言葉以上を語っていた。
「云ってしまったら、周知のものになったら、途端にこの関係が嘘になってしまう気がして……」
 この世に俺の闇を丸ごと救ってくれる存在はいるのだろうか。こと俺自身が救ってほしいと思わないところを、無理矢理掬い上げて抱き締めてくれる人は。果たして。
「結局俺は俺のことしか頭にないバカヤロウだって、自己嫌悪で、」
 何故自嘲ってやつは全て笑顔になろうとするのだろうか。暫く驚いた顔で硬直していた公子は、するりと表情を消して見上げてくる。
「いい加減うんざりするよ、俺ではなくなってしまいたい」
 誰に対して話しているのだろう。脱線を繰り返していっそ元に戻っている。公子は何が聞きたかったんだったか。
「お前が傍に居てくれるのに、独りだと思うなんて本当、失礼だよな」
 ふいに、多少は痛いと感じる強さで両頬をパンッ、と挟まれた。頼りなげに震えていた小さな手が頬を包み込んでいる、というよりは両手でビンタを放つ体勢で固まっていた。
「明彦さん」
 撫でるでもなしに、低く抑えた声で俺の名前を呼ぶ。「真田」じゃない、俺本来の名前を、公子が音にする。
「私、たまに貴方が面倒くさいなって思うよ」
 顔中でくしゃりと笑い、目を見張る俺の頬から手を離さずに云う。
「私に過去を共有してほしいって云うけど、その全てを私が理解するもんじゃないって、決めつけてるなって」
「そんな、ことは」
「ない? 本当にないですか? 他人に知られるくらいで私が消えそうなんて、思ってること自体が、私を信じてない証拠じゃないんですか?」
 事実と本質を見抜かれると人は口を噤むざるを得ない。咽喉までせり上がった息は鳴る前に奥歯で噛み砕かれて、俺は眉根を顰めて黙り込む。
 恋をしている相手から強いことを云われるのは、中々に堪える。
 しかし黙り込んだ俺の耳を撫ぜたのは、裏腹の優しい声だった。
「私は、そのままの貴方が好きです」
 細い親指が頬の膨らみを確かめるように触れている。少年らしさが日増しに失われる輪郭を辿り、俺という人間の形を明らかにしていく。
「女心もわかんなくて云わなくてもいいこと云っちゃったり、完璧には私を信じてくれないんだろうなって、思わせるとこも」
「……お前」
 いつだろう、彼女の笑顔はその大半が苦笑と諦めなのだと思うようになった。今も、苦い思いを滴らせる笑みを唇に宿していた。
「けど、私も明彦のこと、百パー信じれないから」
 云われた真実は、少なからず傷を孕んだ。
「私たちはもっと、気軽に付き合えばいいのにね。信じるとか信じないとか、浮気をするかしないかレベルまで下げたらいいのに。私たちの信じるって、『今後を共に生きるかどうか』って意味じゃないですか」
 ふたり、じっと見つめ合っても交わせない感情がどちらにも存在している、今それが確かなこととなり、俺は益々独りだと実感する要素が増えた気がした。
「合わない、か。俺たちは」
「……わからない。けど、私は明彦さんじゃなきゃイヤ」
 それだけで心が高みにのぼっていく、顔が緩みかけて、単純すぎるだろうと呆れた。顔の上にある公子の手が動いた。
「私が云う、信じられないの意味を分かってくれる人、明彦さんだけだと思うから」
 俺たちは似た境遇を背負っていることを嘆くべきなのだろうか、喜ぶべきなのだろうか。片方は両親を、片方は妹を、それぞれ大切な家族を目の前で喪い、幼い時分に失意のどん底まで落ちている。そういう意味では、シンジすらも理解し切れないものをこの少女は飲み込めるのだ。容易く乗り越えることなぞ叶わないことを、経験をもって知っている。
 それは嬉しくも、悲しいことである。
「だから、いいよ。そのままでいい、周りに云えない理由が分かっただけで、充分です。他まで直してもらおうって、思わないから」
「……お前も、自分を直そうとは思わないから、か?」
「あは。うん、そう。私たち、似てるだけでやっぱり違うし、明彦さんでもわかってくれないだろうって思うこともあるもん。それを貴方なら分かってくれるって思い直すことが正しいとは限らないし、傲慢でしょ? 逆に、私が分からないことを分かってくれって強制させられるのもイヤだしね」
「そこを互いに歩み寄っていくのが恋人だとも思うが」
「私が傍に居るのに独りだーっとか思っちゃう人に云われたくないんですけど。先輩、正論だけじゃ恋はできませんよ」
「恋、な。それも最近よく分からなくなってきた。恋って何なんだよ」
「さあ……?」
 俺が抱えていた感情の機微を「恋ですよ」の一言で片付けたときのことは、『私も真田さんに対して、同じようにイライラしたりハラハラしてたから、客観的意見として恋ですよって云っただけなんです』と云っていた。俺の気を自分に向けるために云った言葉ではなかったらしい。
 だから、彼女自身も恋の「それ以上」を知らない。イライラやハラハラの後にくることは、二人で見つけていくものなのだろう。
 よく、わからない。
「……触りたいとか、そういうのも恋になるのか?」
「だから、そういうの女に聞くのは……」
 云いかけ、楽しそうに声を上げると公子は頬を挟んでいた手を下げて両肩に置き、じっと視線を合わせてきた。眼前で睫毛が瞬き、緋染めのまなこがゆったりと細められる。順平曰く、恋をしている顔、らしい。
「私も、そう、思う」
 近過ぎて、唇の動きが追えない。どくり、服の中で胸が騒ぐ。
「だから、恋なんじゃ、ないですか?」
 鼻先が触れる。自然と、目蓋が、落ちていく。
 初めての感触、感慨を生む前に離れて、至近距離で互いを瞳に捕える。猫のように鼻先を摺り寄せる小さな顔は、ほんのりと笑みを浮かべていた。二回目はすぐに交わされる。甘みとも異なるグロスの味も薄れて、抱えたからだの持つ生身の香りが増した。反比例するように、きゅう、と腹の虫が鳴いて、物足りなさが募っていく。
 離す気がさらさらない俺を笑う少女の吐息が唇に触れる――目蓋が上がらない。稚拙でたどたどしい触れ合いはけれど、許容されていた。笑っていた公子は肩から首の後ろへ、回した手で短い襟足を擦られると、背筋に寒気が走る。ともすれば途端に屹立しそうになる己を諫めて、寒気は欲情の現れなのだと改めて実感した。
「なんだかな……」
 蕩けた緋染めの目蓋に唇を押し付けて、ぎゅうぎゅうと腕の中に症状を抱き締める。痛いと訴える声を律儀に聞いていた頃もあったが、痛いと離してくれ、は同意義ではないことをもう知っているから離さない。
 離さないまま、呟く。
「触ると、周りに関係を暴露したくなるもんだな」
「それ、きっと独占欲ですよ」
 私もです、と公子。
「明彦さんの周りにいる子たち全員に、先輩は私んだから近づくな!って云いたくて云いたくてもう。あの人たちムカつく」
 そのときのことを思い出しているのだろう、眉を顰める少女の背を撫でて柔らかく抱き込み、耳元でひっそりと囁めいた。
「俺は、」
 信じられなくてもいい、いつか居なくなる人間でも、周りに云えなくても、今はまだ、それで構わない。俺たちはまだ高校生で、何も知らない。これからだ。これから二人で、一つずつ解決していけばいいのだ。
 まっさらな画用紙を広げて、二人で何を描こうかと、話し合えばいい。
「――俺は、お前のものなのにな」   

2010/5/2発行、真ハムアンソロジー[先輩、それ恋です!]に
寄稿させて戴きました。
当時主催様にお声を掛けて戴き、楽しく書いたものでしたので
既に完売から2年が経過しておりますのでWEBに再録致しました。